四
「あら。いらっしゃ~い」
思った通りの野太い声だった。
先生の知り合いの方がオカマさんだったこともそうだけど、見知らぬセカイへ踏み入ってしまった事実に、しばしその場から動けなかった。
「つぐちゃんじゃない。あっちゃんは一緒じゃないの?」
つ、つぐちゃん?
その声を皮切りにして、お店の奥から四、五人のオカマさんが出てきた。
僕は、逢坂先生を背中で押すように後ずさった。なのに、後ろの巨体がビクともしないから、オカマさんたちに迫られる格好になる。
化粧品か、香水か。それ特有の匂いがぷんぷんする。
逢坂先生の知り合いの方らしいから、あからさまな表情をしてはいけない。僕なりの愛想笑いをしていたら、それまで逢坂先生へ向いていた視線が一斉に注がれた。
「あら~。また可愛いコ連れてきて」
「もしかして、つぐちゃんのコレ?」
先生の知り合いの方が小指を見せた。
色恋沙汰に疎い僕でも、あれがなにを示すかは知っている。だから、高校生はまだしも、女の子に間違われたんだと思って、愛想笑いからむっとした表情に変えた。小柄だの童顔だのは許すとしても、女の子はない。
こんなことなら、きょうもスーツを着てくるべきだった。
「悪いね、ママ。きょうは土屋の店だから。また」
僕がなにかしらの反論をしようとしたら、ドアが閉められ、すべてをシャットアウトさせられた。
逢坂先生は大笑いをしながら、こっちだというように僕の背を押す。
「あ、え……」
「お前、先走りすぎ」
目的のお店は、もう一つ下の階にあるようだった。下りきって正面のドアに逢坂先生は手を伸ばした。
把手からオシャレな黒いドアが動くと、ベルが鳴る。今度は、いらっしゃいませと、低い落ち着いた声がした。
その店内は、さっきの大ボケを反省させてくれないほど美しかった。このあいだのキャバクラは、きらびやかさが際立っている内装だったけど、ここはほどよい暗さが美しい。調度品も大体が黒であるのに、暗くない。ライティングまで計算されてあるのが見て取れた。
ドアの前で、カウンター席のほうをぼうっと見ていたら、知っている顔があった。はっと振り返る。逢坂先生はすでに移動していて、カウンターの前に立ったバーテンさんと笑顔で言葉を交わしていた。
そのバーテンさんが、こっちへ視線を向けた。逢坂先生や根津先生レベルのイケメンだ。ライトを浴びているせいか、後ろで一つにまとめている長い髪は、あのしっとりキャラメルと同じくらいの茶色で輝いている。
バーテンさんが柔らかい笑みを浮かべ、手をそっと出した。逢坂先生のとなりを勧めてくれている。
早く来いと、先生も手を振る。そっちの顔は渋いさまで、ぼくはまたはっとして、慌てて一歩を踏み出した。
途端に膝が崩れた。一段低くなっていたのだ。
くすくすと、あちらこちらから声が上がる。
尻もちはなんとかつかずに済んだ僕は、後ろになった段差を睨みつつ、注目されていることに身を縮こませ、勧められた席へついた。
「土屋(つちや)です。初めまして」
逢坂先生の前にいたバーテンさんが会釈した。
低音だけども声に重みはない。逢坂先生みたいに、第一声から首根っこを掴んでくるような感じもない。
正真正銘、先生のお知り合いだという土屋さんは、長身で顔がいいことこそお仲間っぽいものの、スマートな出で立ちだ。
笑顔は、営業用かもしれないけど、この柔らかい雰囲気だけでころっといっちゃう女の子は多いんじゃないだろうか。
現に、周りのお客さんは女の人が多い。
「は、初めまして……。渡辺と申します」
僕も頭を下げると、土屋さんは作業を進めながら、さらに笑みを深くした。
しばらく、その手元へ見入った。アイスピックで氷を割る。それをグラスに入れ、洋酒を注ぎ、輪切りのレモンを浮かべる。マドラーを刺せば、はいでき上がり。
コースターに乗せたそれを逢坂先生が飲むまでが様式美のようにすべてがキマっていた。
おおと、思わず感嘆の声が出る。柿ピーでビールを呷るだけの自分はなんなのかと、問いただしたくなる。
「そんなにじろじろ見んなよ」
「べ、べつにっ」
グラスを置いた逢坂先生から、ばっちり見咎められ、裏声になってしまった。
べ、べつにっ、先生だけを見ていたわけじゃありませんっ。
そう続けるつもりだったけど、周りからまた聞こえてきた笑い声で僕は沈んだ。カウンターへ取りつくように背を丸める。
うむむ。なんだか落ち着かないし、調子狂うし……早く帰りたいかも。
「ところで、なにを飲まれますか」
「へ?」
不意に話しかけられ、僕は顔を上げた。
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