五
違うボーカルが入ってきた。ギターから手を離し、あの人はマイクに口を近づける。
ようやく顔が見えた。
いつもなら、目にかからないように、その長い前髪を後ろに流しているけど、いまは垂らしている。
あれは黒澤だ。
またギターに手をやる。あの人が弾かなくても、べつなギターの音が入っている。
弦をなぞったり押さえたりする指の動きが早くなった。ピックを持つ手を、ときたまマイクへ添えて歌をうたう。喋るときよりも柔らかさのある声だ。もともと入っているボーカルに合わせるような歌い方だった。
間奏に入る前、長い前髪を掻き上げた。
あの人は、そのときに初めて、シートが並ぶこっちを見上げた。
力強く、それでいて滑らかに弦を操る手は止めず、眉間にしわを寄せ、俺の姿を窺うようにしている。
俺がだれかわかったのか、黒澤はにこっとして、手を止めた。それでも、早いリズムのドラムと、高いギターの音は途切れない。
黒澤がマイクに近づいた。
「なんだ。中野卓。俺になにか用か?」
いまだ大音量に囲まれていて、俺はただ首を横に振るだけ。
それに気づいた黒澤は、音を止めた。
「こんなところにまで顔を出すなんて、そんなに俺に会いたかったか」
マイク越しではなく、今度は普通に喋った。
しかし、またおかしななことをほざいている。ジョーさんじゃあるまいし。
だから、ステージまで行くのをためらったけど、あの人の興味が本当は違うところに向いていることを思い出して、段差の低い階段通路を降りた。
下まで着くと、こっちが見上げる格好になる。
「黒澤サン、バンドすんだって?」
「ご覧のとおり」
黒澤は、両手を広げて答えた。
「意外とでも言いたいのか?」
「べつに」
「ああ、あれか。ギャップにやられたってやつか」
「は?」
俺は顔をしかめた。
ひらりと、黒澤がステージから降りてきた。
俺はつい身構えてしまう。肩をすくめる。
「意外な一面を目の当たりにして、不覚にもどきどきして、ほんとは見つからないうちに帰ろうと思っていたのに、つい見とれていて、俺に見つかってしまった。……じゃないのか?」
俺が睨むと、そのぶんを返すように黒澤はにやにやした。
「だんまりということは図星か。わかり易いな」
と言いながら、距離を詰めてくる。
俺は後ずさる。その背中が、とうとう壁についた。
「来んなよ」
「お前が逃げるからだろう。しかし、あれだな」
俺の後ろへ手を置き、黒澤はちらっと見上げた。
「こう暗いと、遠くからじゃだれかわからないし、防音も完璧だから、やりたい放題だな」
「なんかしたら、タコ殴り」
「なんかって?」
「……なっ。ていうか、あんたがいま狙ってるのはメイジだろ? なんで俺に迫ってくるんだよ」
黒澤が、視線と頭をよそへやった。
「──メイジ?」
その隙に、目の前の大きな体を押しやって、もう捕まらないようにと、俺は階段を駆け上がった。
「卓!」
足は止めずに振り返ると、黒澤がステージにギターを置いて、こっちへ歩を向けるところだった。
「ちょっとからかっただけだ」
と、笑って言う。
ちょっとも、からかっただけも、信じられるか。
俺は、残りの階段を駆け上がった。
シートの列を二分する通路で、黒澤は立ち止まった。
「卓。……お前の好きなものってなんだ?」
「は? いきなりなんだよ」
「人じゃなく、もので頼む」
「いや。いまここでそれを訊く意味がわかんねえっての」
「それは気にするな。食べ物でも、花の名前でも構わない」
あまりに一方的な訊き方で、俺は首をひねりながらも、その「好きなもの」を頭の中に並べた。
「うん、まあ……アイス、とか?」
「アイスクリーム?」
「そそ」
ふうんと鼻を鳴らし、黒澤は踵を返した。軽やかな足取りで階段を降りていく。
なんなんだと、その後ろ姿に投げつけてやりたい言葉もあったけど、はたとミケを思い出した。
「気をつけて帰れよ」
俺が出入口のドアを開けたところで、黒澤はマイク越しにそう言った。
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