違うボーカルが入ってきた。ギターから手を離し、あの人はマイクに口を近づける。

 ようやく顔が見えた。

 いつもなら、目にかからないように、その長い前髪を後ろに流しているけど、いまは垂らしている。

 あれは黒澤だ。

 またギターに手をやる。あの人が弾かなくても、べつなギターの音が入っている。

 弦をなぞったり押さえたりする指の動きが早くなった。ピックを持つ手を、ときたまマイクへ添えて歌をうたう。喋るときよりも柔らかさのある声だ。もともと入っているボーカルに合わせるような歌い方だった。

 間奏に入る前、長い前髪を掻き上げた。

 あの人は、そのときに初めて、シートが並ぶこっちを見上げた。

 力強く、それでいて滑らかに弦を操る手は止めず、眉間にしわを寄せ、俺の姿を窺うようにしている。

 俺がだれかわかったのか、黒澤はにこっとして、手を止めた。それでも、早いリズムのドラムと、高いギターの音は途切れない。

 黒澤がマイクに近づいた。


「なんだ。中野卓。俺になにか用か?」


 いまだ大音量に囲まれていて、俺はただ首を横に振るだけ。

 それに気づいた黒澤は、音を止めた。


「こんなところにまで顔を出すなんて、そんなに俺に会いたかったか」


 マイク越しではなく、今度は普通に喋った。

 しかし、またおかしななことをほざいている。ジョーさんじゃあるまいし。

 だから、ステージまで行くのをためらったけど、あの人の興味が本当は違うところに向いていることを思い出して、段差の低い階段通路を降りた。

 下まで着くと、こっちが見上げる格好になる。


「黒澤サン、バンドすんだって?」

「ご覧のとおり」


 黒澤は、両手を広げて答えた。


「意外とでも言いたいのか?」

「べつに」

「ああ、あれか。ギャップにやられたってやつか」

「は?」


 俺は顔をしかめた。

 ひらりと、黒澤がステージから降りてきた。

 俺はつい身構えてしまう。肩をすくめる。


「意外な一面を目の当たりにして、不覚にもどきどきして、ほんとは見つからないうちに帰ろうと思っていたのに、つい見とれていて、俺に見つかってしまった。……じゃないのか?」


 俺が睨むと、そのぶんを返すように黒澤はにやにやした。


「だんまりということは図星か。わかり易いな」


 と言いながら、距離を詰めてくる。

 俺は後ずさる。その背中が、とうとう壁についた。

 

「来んなよ」

「お前が逃げるからだろう。しかし、あれだな」


 俺の後ろへ手を置き、黒澤はちらっと見上げた。


「こう暗いと、遠くからじゃだれかわからないし、防音も完璧だから、やりたい放題だな」

「なんかしたら、タコ殴り」

「なんかって?」

「……なっ。ていうか、あんたがいま狙ってるのはメイジだろ? なんで俺に迫ってくるんだよ」


 黒澤が、視線と頭をよそへやった。


「──メイジ?」


 その隙に、目の前の大きな体を押しやって、もう捕まらないようにと、俺は階段を駆け上がった。


「卓!」


 足は止めずに振り返ると、黒澤がステージにギターを置いて、こっちへ歩を向けるところだった。


「ちょっとからかっただけだ」


 と、笑って言う。

 ちょっとも、からかっただけも、信じられるか。

 俺は、残りの階段を駆け上がった。

 シートの列を二分する通路で、黒澤は立ち止まった。


「卓。……お前の好きなものってなんだ?」

「は? いきなりなんだよ」

「人じゃなく、もので頼む」

「いや。いまここでそれを訊く意味がわかんねえっての」

「それは気にするな。食べ物でも、花の名前でも構わない」


 あまりに一方的な訊き方で、俺は首をひねりながらも、その「好きなもの」を頭の中に並べた。


「うん、まあ……アイス、とか?」

「アイスクリーム?」

「そそ」


 ふうんと鼻を鳴らし、黒澤は踵を返した。軽やかな足取りで階段を降りていく。

 なんなんだと、その後ろ姿に投げつけてやりたい言葉もあったけど、はたとミケを思い出した。


「気をつけて帰れよ」


 俺が出入口のドアを開けたところで、黒澤はマイク越しにそう言った。



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