第4話

鏡のような水面に、数粒の雨が垂れた。その音で、目が覚めた。

暗かった病室はすっかり日の光に満たされ、開け放たれた窓から吹き抜ける風は白いカーテンを揺らし、雨の香りを運んできた。壁にかけられた時計を見ると、既に朝の八時を過ぎていた。カーテンを引いてみると、灰色の重厚な雲の隙間から太陽の光が差し込んでいるのが見え、丁度街の中心部の上空に虹がかかっているのが見えた。

一日が、始まる。

「あっ、起きた! 晴香さん、お体の具合の方はどうかしら?」

その時開け放たれていた病室の入り口に看護師さんが立ち、私の方へと歩いてきた。

「おかげさまですっかり元気になりました。もう普通に歩けると思います」

「そうねぇ、顔色も大丈夫そうだし、予定通り一晩で退院できそうね」

そう満足げに頷く看護師さんから視線を外し、その奥の空のベッドへと目を向ける。昨日の夜、もう一人の幼い患者がいた場所。

「あの、看護師さん」

「はい?」

「この病室の近くに、小さい男の子の患者さんっていらっしゃいますか?」

私がそう言うと、あまりに予想外すぎたのか看護師さんは目を丸くしてしまった。

「いや、そもそも昨日この病院に入院してたのは、晴香さんだけよ」

「えっ?」

心臓が跳ねた。

「しかも、小さい男の子の患者さんなんて、半年前のあの子が最後じゃないかしら」

「えっと、あの子ってのは?」

まさか。

「半年前ね、丁度ここの病室に入院してた男の子がいたのよ。想像力が豊かなのか不思議な事をよく言う子だったんだけどね、どういうわけかご家族の方が一度も来なくてね。結局その子が息を引き取るまでお見舞いには来なかったの」

「な、亡くなった……?」

「そう、確か肺炎でね。確かに不思議な子でよく雨を眺めてたりもしたけど、ちょっと可哀想だったわね。結局誰も来てくれなかったわけだから」

そう言って看護師さんが向かいのベッドに目を向ける。窓から舞い込むように吹き込む風にフワリと白いシーツが踊り、そこに――

小さな背中が、見えた気がした。間違いなく幻、記憶の投影だと、分かっているのに。

『僕には雨がいるから。歌を聞いていれば、それでいいから』

昨夜の彼の言葉が脳裏に蘇る。彼は、雨に何かを託し過ぎていたのだろう。誰もが誰かに求め、失くすと寂しさに押し潰されてしまう、温かくて心の底から安心できる、蛍の光みたいな何かを。だから、だからこそ――

雨音が、歌声になってしまったのだ。聞こえるはずの無い『声』を、彼は雨の中に求めてしまったのだ。そして、聞いてしまった。

「昔話はこれくらいにして、晴香さん、今朝御飯持ってくるからちょっと待っててね」

「あっ、お願いします」

私がそう言って頭を下げると看護師さんは了解とだけ言って慌ただしく病室を出ていった。再び病室に一人になってから、再び向かいのベッドに視線を移す。今はもう誰もいない、空のベッド。

『独りじゃないなら、寂しくないなら、大人だよ』

あの時の彼の言葉。今ならその意味が、痛いほどに分かる。きっと彼の目に映っていたのは、多くの人と共に動き、笑っていた大人達の姿。そんな身近な大人の片隅で彼は一人、誰もいない病室で雨音に耳を傾け、そこに甘える人影を見出だしていたのだろう。冷たい時雨の向こう側に見えるはずの無い二つの人影を見て、そうでなくても人の気配を感じ、聞こえるはずのない声を聞いていた。歌を聞いていた。

でも、そんな温もりは、何処にもなかった。

「晴香さん、朝御飯持ってきたわよ」

だったら。

「看護師さん、出来たらで良いんですけど、そこのベッドにお花をお供えしてもらえますか?」

せめて私に出来る事を。彼は、独りじゃない。

「え? どうして?」

「さっきの男の子、何か可哀想だなって……」

「あぁ、まぁいいわよ。丁度この病室にも花瓶を置こうかって話してたところだし」

看護師さんは朝食を置くと再び病室を後にした。あの時私は大人かもしれないと思ったが、やっぱり違うのだろうか。いや、きっと年なんて関係無いのだ。

時雨の歌は、空洞の中で響くのだから。

「持ってきたわよ。これでいいかしら?」

看護師さんの手にあったのは、花瓶に入った数本の竜胆の花だった。凛とした紫色の出で立ちが網膜によく焼きついて離れない。

「あっ、ありがとうございます……」

その花瓶は窓際に置かれた。ふと風に吹かれて竜胆の花が儚げに揺れる。これで多少救われればいいのだけれど、と窓の外に目を向ける。

こうして何度も見てきた病室の風景、小さな花に勇気づけられる事だってあった。それくらい、病院に一人でいると心細くなる。もし、お見舞いに誰も来なかったら、臨終のその場に誰もおらず、一人で終幕を迎えたらと想像して、大穴が空いたような虚しさに襲われる。そうなったらば、外の僅かな音にすがってしまうかもしれない。そうなったらば――

声が、歌に変わるかもしれない。

「さ、冷めない内に朝御飯食べちゃって」

「すみません、いただきます」

膳に手を合わせて、考える。爽雨が、じいやが、友達がいる今は大丈夫だと思うが、いつか、私にも歌が聞こえる日は来るのだろうか、と。孤独に埋もれて、温もりに飢えてしまったら、と。もしそうなったらば――

時雨に溺れる事になるのだろうか。

いいや、きっと。

「救いに、なるのかな……」

その耳に、静かな時雨の囁きが聞こえた気がした。

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時雨の歌 佐倉 ミナモ @minamo35

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