第3話

「私が、大人?」

うん、と少年が頷く。窓からこちらに視線を移したその横顔が暗い雨空の微かな青に照らされる。そしてその目は、奥の見えない空洞のようにどこまでも深く、虚ろだった。

「だって雨の歌、聞こえないんでしょ?」

「……うん」

「だったらお姉ちゃんも大人。独りじゃないなら、寂しくないなら、大人だよ」

独りじゃないから大人、大人は寂しくない。それは、つまり。

「だったら、君は――」

「いいよお姉ちゃん、無理しなくても。僕には雨がいるから。歌を聞いていれば、それでいいから」

少年がそう言って再び窓の外を眺める。降りしきる、秋の冷たい時雨。その雨音に触れれば氷のように冷たかった。指先が凍ってしまいそうな、そんな秋の寂しい雨音が、耳の奥にこびりつく。確かにこれは歌ではない。もう私の耳には、歌には聞こえない。でも――

音、でもない。ほんの少しだけ気持ちが見えるような、その狭間。そう、聞こえる。

「歌、なのかもしれないね」

「へっ?」

少年が驚いて振り返る。心なしか夜の明かりに彼の体が透けて見えた気がした。

「確かに、歌は聞こえない。何て歌ってるのかもサッパリだもん。でもね――」

でも。

「少しだけ、ほんの少しだけ、声に聞こえる時があるんだ。いや、聞こえるというよりかは、声であってほしい、みたいな感じかもしれないね」

心に何か重いものとか大穴を抱えた時、外の雨に何かを託してしまう。そしてそんな時に、ただの雨音は何かの温もりをもって耳に届く。どうしようもなく寂しい時、窓の外の音に耳を澄ませると、不思議と温かくなる。普段ならば聞き逃してしまうような音に、何か特別なものが混ざって聞こえる。凭れかかれるような、抱きしめられるような、そんな温かい何か。そしてその時――

音は、声に変わる。

「お姉ちゃんも、少しは聞こえるんだ」

「うん、本当に少しだけだけどね」

もう私も、限りなく『大人』に近いから。

「そっか……やっと、分かってくれる人に会えたかも。僕、嬉しいよ」

やっと少年が微笑んだ。とてもぎこちなくて、でもどこまでも無垢なその笑顔は、どこか儚かった。風が吹けば消えてしまいそうなくらい。そしてその顔を照らす青に、少しだけ白が混じる。窓の外に広がる闇が薄れ始め、その果てにまだ眠る街の影の遠景がぼんやりと見えていた。

そっと目を閉じると、やはり雨の音が耳の奥に響いてやまなかった。暫く入院していなかった事で忘れかけていた、本当に小さな温かさ。それがじんわりと胸に染み入るようだった。

「お姉ちゃん、ありがとうね。僕、もう、寂しくないから」

その言葉が滲んだのが最後、完全に何も聞こえなくなっていた。ただ、ただ、雨の音が――声が、頭に焼きつくばかりだった。

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