透明な私または愛と呪いについて

御荊くろ

存在しない子どもだった。

私をいなくならせる言葉はそこらじゅうに溢れていた。親戚のおばさんも、テレビも、先生も、私を透明にする呪文をかけた。

まるでそれが挨拶のように、「好きな男の子いるの?」なんて年上の女性たちは私に呼びかけた。テレビは少年と少女の初々しい恋についてことさら微笑ましいと伝えたし、先生たちは生徒がよその大人に関わらないよう目を光らせていた。

ありていに言えば、私はうんと年上の(最低でも40代から上、でもできれば、50歳から上がいい)男が好きだ。欲望している。12歳くらいからずっとそうだ。自分と同じ歳の女の子と付き合ったこともあるけど、私は彼女を欲望できなかった。なにも、恋愛には欲望がなければいけないだなんて思わないけれど。私には合わなかっただけ。


私はこうした自分のセクシャリティをあきらかにして、否定されなかった経験がほとんどない。「好きな男の子いるの?」とたずねてきた人に対して、露骨にならないよう、自分のセクシャリティを述べたことが何度かあるが、相手の返事は否定的なものばかりだった。「若いうちにはよくあること」だとか「そんなの拗らせてたら幸せになれない」だとか「お父さんがいないからかしら」だとか。

そのたび私は思った。自分の不安を私に押し付けるんじゃねえよ、と。私にそのような言葉をかける人たちは、目の前の少女が悪い大人に利用されやしないかひやひやしているのだろう、私はそう思う。でもその不安を処理するのは、私の仕事ではない。それに、これは若いころにありがちな憧れではないかとか、父親がいないからではないかとかは私が何百回も考えつづけて、否定に至った事柄だ。たったいま私の欲の形を知った人に、憶測で語ってほしくはない。


ところで私は別名義で詩を書いていて、先日それで賞をいただいた。該当の詩はフェミニズムをテーマにした作品だった。

フェミニズムに対して、私は愛憎を抱いている。それは、なぜなら、私をぼろぼろにしてきたものがしばしばインターネット上のフェミニズムだったからだ。

白状すれば私は昔、ミソジニー系のネット右翼だった。「女性だけど女性差別なんか感じたことないし、なにかする必要も感じていない」と、他人の痛みを塗りつぶすような言葉を吐いては安堵していた。フェミニストになる勇気がなかった。私は、悪人でもいいから、とにかく透明にだけはなりたくないと思っていた。

ツイッターフェミニズムの本質は、共感にあると、私は思っていて、その共感を求められる事柄のなかにはしばしば私のようなものを間接的あるいは直接的にヘイトするものが含まれている。私はそこに飲み込まれたくなかった。

もっとも、フェミニズムの場はツイッターだけではないし、なにもアンチフェミニストになる必要なんかなかった。私にもできるフェミニズムのやり方というものは当然あるはずだと今では思っている。

馬鹿なことした。でも半殺しにされていたことも事実だった。


19歳の冬。私はいまなぜか5歳上のパートナーと一緒にいるけれど、私の欲求の形が大きく変わったわけではない。私は彼を愛しているし欲望もするが、しばしば、たちの悪い目眩がするほど葛藤している。

フェミニズムに対する気持ちは、憎しみから愛憎に変わった。でも愛憎が100%の愛でない以上、私はフェミニズムを許しきれないだろう。

私の欲望の形は私に、呪いみたいに染み付いて、そこにさらに、他人の思想ががっしりしがみつきながら取り憑いている。

私はこれらを愛したり憎んだりしながら、結局自分からは死にきれずに生きていくのだろうな。そんなことを考えながら、20までに死ぬという予定を私は私から削除した。


2019年12月1日

御荊くろ






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