第45話 足掻くように、羽ばたくように

 俺とみづきが入ったのは、今日ライブをやったフロアとは別にある練習スタジオだ。壁面のひとつは全面鏡になっていて、そこそこ動き回れる程度には広いフローリング。


 ドラムセットの奥から椅子を引っ張り出してくると、俺は貸し出しのアコギを抱えてそこに座り込んだ。


「こんなとこ連れて来て……どういうつもりなのよ」


「ん? さあな。俺にも分からん。でも……」


「でも?」


「ここならなんか、見つかりそうな気がしてな」


「気がしたって……」


 俺が自分で言った通り、根拠なんて何もない。


 ただ俺は黙々とギターのチューニングを済ませると、分散和音で弦を鳴らし始めた。


 柔らかな音がスタジオに広がっている。アコギ――俺が今弾いているのは、クラシックギターと呼ばれるものだ。かつてはエレキを弾いていたけど、かといってこっちを弾けないわけじゃない。


 ……ま、長年弾いてなかったせいで腕はだいぶ錆びついてるけどな。今も時おり弦を押さえるのに失敗して、音が綺麗に出ない時がある。


 それでも、これからやろうとしていることには、多分じゅうぶんだろう。


「……これって」


 不意に音の調子が変わったことに気づいてみづきが声を上げた。


 適当に鳴らしていた音を、今度はある進行に従って俺が奏で始めたからだ。


 そしてその曲を、バレエをやってたみづきが知らないわけがない。


 多分、世界で最も知られる、1876年に作られたバレエの名曲だ。作曲者の名前は、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。きっと誰よりもバレエを愛した音楽家。


 そして、今俺が遠い昔から拝借している曲の名前は――。


「――まさか、白鳥の湖」


「ああ」


 曲を奏でながら、俺はうなずく。


 バレエと聞いて、俺が思いつく曲はこれしかなかった。昔まだ作曲をしていた頃、ジャンルを問わずに練習し、修得した曲の一つ。


 どこか物悲しい旋律で、孤独に泳ぐ白鳥を想起させる音の調べ。


 静かに曲を奏でる手を止めぬまま、俺はみづきに語り掛ける。


「俺はずっとな。諦めたって思ってたんだ。もうやめたって、二度とやるかって――ギターなんて弾いてたまるかって思ってた」


「…………」


「でも、今日ミヤのライブを見て、そんなの思い込みだったって気づいたんだよ。とにかく悔しくてたまんなかったんだよ。なんであそこにいるのが俺じゃねえんだって。どうしてあそこでやめちまったんだって」


 キミは要らない――その言葉に呪われて、音楽を捨てた俺。


 だけどそんな呪いに縛られて、俺はずっと気づいてなかった。


 本当はあの時、俺がどうしたかったのか。


 ギターもベースも録音機材も、部屋の奥に押し込んで見ないふりして。


 どんなに誘われてもライブに行かずに、音楽を聴くことからさえも避けるようになって。


 自分の生活から、音楽というものを消し去って、遠ざけて、未練なんてまるでないって思い込もうと必死になって。


 ――そしてたった一度、ミヤのライブを見ただけでそんなものは瓦解した。


「本当はもっとしがみついてりゃ良かったんだ。みっともなくても、やり続ければ良かったんだ。メンバーにも無理言って、もっかい全員で上を目指し直したって良かった。そうでなくたって、俺一人でだって新しく仲間を掻き集めることだってできたはずだってのに」


 気づけば後悔で溢れていた。ミヤのライブの最中、くだらない繰り言が溢れては消えて溢れては消えてそれでも溢れて溢れて溢れて。


 そんな自分の奥底に沈めていた本音に、ようやく今日、気づくことができた。みづきがライブに興味を持ってくれた、そのおかげで。


「――なあ、みづき」


「……なに?」


「俺は、お前のことは分かんねえよ。バレエをやりたいのか、やめたいのか、そんなことも知らねえよ。だけどさ――逃げんな」


「っ」


「自分がどうしたいのかも分からねえまま、答えを出すことから逃げんな。そこに隠れてるかもしれない自分の本音から、目を背けんな」


「タツトラ、君……」


「どうせ、どんなに逃げたところで、あとんなってからいっぺんに追いついてくるんだよ、そういうのは。――俺が今日、そうなったみてえに」


 同じフレーズを奏で続けながら、俺はみづきに言葉を投げかけ続ける。


 ……へっ。本当は、俺にこんなこと言う資格なんてありゃしねえんだ。四年も立ち止まってたくせに、偉そうなことを言ってると自分でも思うさ。


 だけど――いや、だからこそ。俺は今日知ったばかりの自分の後悔を削り出しながら、彼女に伝えていた。


 俺と同じ過ちをしないように。真っ直ぐ前を向いていけるように――。


「どんな答えだっていいんだ。情けなくてもかっこ悪くてもダサくてもいいんだよ。それでも――向き合わないまま、決められないままでいるより何百倍だっていいんだから!」


「あたし、は」


 みづきは声を震わせる。


 それから、一度、二度、唇を開いては閉じた。なにかを言おうとして、でも迷うように目を伏せる。


 力なく下げられた両腕は、まるで途方に暮れているかのようだった。その様はまさしく孤独な白鳥。きっと誰よりも、今のみづきは世界にたった一人でいる。


 ――ダメだったか?


 一瞬そんな不安が胸をよぎる。


 答えを出せ。口で言うのは簡単だけど、そんなもんすぐに決められるなら苦労しないんだ。


 きっと急かしすぎてしまった。このまま音を鳴らし続ければ、みづきを追い詰めてしまうことになる。


 だから俺は、ギターを弾く手を止めようとした。


 しかし。


「――ッ」


 不意にみづきが、動いた・・・


 それはまさしく、白鳥の演舞。俺にバレエはよく分からない。だけど、腰をすっと引き上げて、悠然と体を動かすみづきの姿は、背が震えるほどに恐ろしい。


 だからこそ分かった。これはみづきなりの答えの示し方なのだと。恐ろしいまでのバランス感覚で片足を高く掲げるのも、普通なら目が回りそうなぐらいの勢いでくるくる回転するのも、まさしく今、みづきが足掻いて足掻いて足掻きながら、答えを探し求めているからだ。


 ならば俺にできることは唯一つ。みづきが答えを出せるようになるまで、音を絶やさないことだけだ。


 それから何度も俺は同じ曲を弾いた。みづきの腕が止まるまで。足掻くように踊る彼女を、横でそっと支えるように――。

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