第39話 ライブハウス
そろそろ八時半を迎える頃だった。
俺はみづきを伴い、ライブハウス『μ’s』に向かった。
μ’sは駅前の通りから少し路地に入ったところにある。懐かしい外観を前にすると、少し胸にこみあげてくるものがあった。
「ここが、ライブハウス……」
隣では、みづきが物珍しそうな目をμ’sに向けている。
「思ってたより普通なんだ」
「どんなのを想像してたんだよ」
「それは……なんかもっと、反社会的な感じっていうか」
元
ま、気持ちは分かる。ライブハウスに対するパブリックイメージなんてそんなもんだよな。しかしμ’sは案外小ぎれいな外観で、一階はスタジオやフロアが、二階にはμ’sのオーナーが経営するバーが入っている建物だった。
扉を開いて中に入ると、熱気と興奮の残るざわついた空気が出迎えてくれる。いつもチケットを販売しているテーブルの上には代わりにビールサーバーが置かれていて、『一杯五〇〇円!!!』と書かれたガムテープの値札が貼り付けられていた。
「おお、りゅーこか」
俺に気づいたオーナーが話しかけてくる。このライブハウスに足を運ぶ人間は、俺のことを『辰虎』ではなく、RIBERION時代に使っていた『RYUKO』の方で呼ぶ。
「どもっす。……お久しぶりっす」
「ああ。ったく、ようやく顔見せやがってこのクソ野郎が」
俺がまだ学生だった頃から俺のことを知ってるオーナーは、タバコを口に咥えながら俺の胸を乱暴に拳でどついてきた。
「ちったあ顔出せ。んでもっと売り上げに貢献しろ。ったく景気が悪いったらねえ」
「……ッス」
「なにしみったれたツラしてんだ、ボケ。あーあーそんな顔されたら余計に景気が下がるだろうが」
チッ、と舌を鳴らしながらもう一度俺の胸を拳で突くと、「じゃーな」と言って楽屋のほうへと消えていった。
「優しい人だね」
横からみづきがそう言ってくる。
「あ? ああ……分かるのか?」
「照れ隠しの仕方がタツトラ君に似てる」
「……なんだそりゃ」
とはいえ、まあ確かにみづきの言う通りだ。
今のは口下手なオーナーなりに、俺を歓迎してくれたのだろう。久しぶりにこうして話すと、つくづく誤解されやすそうな性格をしているなと俺は思った。
……ま、あまり人のことを言えない自覚はあるんだが。
「ところで、りゅーこって?」
「昔バンドで使ってた名前だよ」
「どんなバンドだったの?」
「RIBERIONだよ」
「ああいう感じのバンドだったんだ」
へえ~、と感心した声をみづきが上げる。多分勘違いしているが、まあいいだろう。
そうしているうちに、次のライブ――つまりミヤ達の演る時間になった。
みづきと共に解放されたフロアに入ると、まだ照明が絞られていて薄暗い。フロアにこもる熱気は肌にまとわりついてくるようで、それがなんだか懐かしかった。
「なんだか、ドキドキするね」
隣から話しかけてくるみづきに、小さくうなずく。
――やがて、ステージの上に彼らは現れた。ミヤがドラムをつとめる『雨フレバ土砂降リ』というバンドだ。
μ’sではもう何度もライブを打っていて、常連で彼らを知らないものはいないだろう。
実力だって決して低くない。とてもバランスのよく取れた、いいバンドだ。
ミヤが、ドラムスティックを二本、高々と掲げる。それから、カッカッカッカッ、という、演奏の始まりを告げるフォーカウント。
直後、音の奔流が俺を、フロアを飲み込んだ。
「――――ッ」
音に包み込まれながら、不意にこみあげてくるものがあった。
涙が出そうになってくる。奥歯をキツく噛み締める。目頭に覚える熱いものは、いったいなにによるものなんだろう?
もう、四年も楽器に触れていない。音楽を聴いたりとかもしていない。なのに一瞬で蘇ってくる。暴力的なまでに、過去が、記憶が、衝動が、胸の奥で溢れんばかりに暴れている。
バスドラムの低音が空気を震わす。ギターが金切り声を上げ、ルートを鳴らすベースがそれを受け止める。喘ぐように叫ぶように歌うボーカルの声が、感情を思い切り揺さぶってくる。
昔の場所に、俺はいた。
「……っ」
聴きながら、気づけば俺は震えていた。そんな俺の手を、不意になにか温かなものが包み込んできた。
見れば、みづきがこちらを見上げていた。「どうしたの?」――そんな風に、彼女の瞳が問いかけてきていた。
――へっ。
ざまあねえな。ガキに心配されちまうなんて。
喉の奥から苦笑が漏れる。きっとよほど情けないツラでもしていたに違いない。まったく、情けない話である。
そんな言葉をやや自嘲気味に胸の内で漏らすと、俺はみづきの手をギュッと握り返す。
――体の震えは、気づいたらもう止まっていた。
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