第30話 見るべきもの
さて。眼前に現れたどこかの誰かの妹様を見ながら、俺は考える。
背の高い女だ。俺よりは少しだけ低いが、間違いなく百七十センチは超えているだろう。
髪の色は黒。顔立ちはかなり造作が整っていて彫りは深めのハーフ顔。学生服に身を包んでいて、肩からは大きなスポーツバッグを提げていた。
そして、嫌悪感丸出しでこちらに向けられる瞳とか、キュッと引き締まった唇とか、あどけなさを残しながらもどこか大人びている顔の輪郭とかは、俺の知るとあるやさぐれた万引き少女を想起させるもので……。
「ほーん……」
だからついつい、そんな感心の声を無意識に漏らしているのであった。
「ほーん、じゃないんだからッ。さっさと答えなさいよ、お姉ちゃんに近づく役立たずの害虫!」
「出会い頭に害虫呼ばわりとは、随分と斬新な挨拶だな」
煙を吐き出しながらそう返し、俺はのっぽ女の横を通り過ぎようとした。覚えもないのに害虫呼ばわりしてくるような女の相手なんかしたところで、厄介なことになるだけだ。
すると女は慌てた様子で俺の前に再び回り込んでくる。
「ま、待ちなさいよ! わたしが話しかけてるでしょっ」
それとっ――と、こちらに指を突きつけてくる。
「煙いからタバコやめてっ」
「携帯灰皿は持ってるぞ」
「ママが言ってたわ。タバコを吸う男はろくでなしだって!」
「ほーん……」
告げられた言葉に唖然として、それしか口にすることができなかった。
ろくでなしだと言われたことに驚いたわけじゃない。むしろ、その件については自覚している。恥も失敗もこれまでさんざん晒してきたし、今さらそれをごまかすつもりもない。
俺が驚いたのは、初対面の、それも男相手に、「ろくでなし」と声高に非難できる神経の方だった。向こう見ずというか無鉄砲というか……呆れるあまり言葉もない。
そうして黙り込んでいると、俺が気圧されているのかとでも思ったのか、女がさらに食ってかかってきた。
「あなたなんでしょッ。最近、お姉ちゃんにちょっかい出している男は!」
「お姉ちゃんっていうのはみづきのことか?」
「お姉ちゃんの名前を気安く呼ばないでよッ。気持ち悪い!」
おおう……ストレートに悪意をぶつけられると、思いのほかダメージが大きいな……。
しかし、今の発言で理解した。こののっぽの女はみづきの妹で、どうやら俺がみづきにちょっかいを加えていると思い込んでいるらしい。
もちろんそれは大いなる誤解なのだが……勝気な表情でこちらを睨みつける彼女の頭には、どうやら微塵もその可能性がないようだった。
「おかしいと思ってたのよ。最近お姉ちゃんの様子がちょっとおかしいって思ってたから……」
「おかしい? みづきが?」
「だって最近、帰りがいつも遅いんだもん。それに、今日だって昼から出かけたりなんかして……こんな男に会うためだったんだ……」
疎ましげに呟くと、刺すような目をこちらに向けて彼女は叫んだ。
「わたしの憧れのお姉ちゃんを返しなさいよ! お姉ちゃんは、あんたみたいなおじさんが誑かしていいような女じゃないんだからッ」
「別に、誑かしてなんかねーよ」
言っても無駄だろうな、と思いつつも反論する。
「嘘つかないでよッ」
案の定、無駄だった。
「お姉ちゃんはいつも綺麗でかっこよくて……ほんとは完璧なはずなのッ。本当なら、あなたみたいに冴えないおじさんなんかと一緒にいたりするような人じゃない!」
「……」
「それなのに今日のレッスンだってお姉ちゃんは来てくれなくて……わたしの憧れのお姉ちゃんをあなたがどんどん壊しているんだ! もうお姉ちゃんに二度と近づいたりしないでよッ」
妹を名乗る女の言葉を聞きながら、どんどん気持ちが冷えていくのが分かった。
憧れのお姉ちゃん?
いつも綺麗でかっこいい、完璧なお姉ちゃん?
なんだよそれは。そんなみづきがどこにいる。少なくともそれは、俺の知ってるみづきじゃない。
「ハッ」
彼女の言葉を気づけば鼻先でそう笑い飛ばしていた。
「くっだらねえ……なんだよそれは。姉妹だってのに、全然姉貴のこと分かってねえのな、あんた」
「ッ、あなたなんかにわたしとお姉ちゃんのなにが分かるの!?」
「知るかよ。ただ――あいつはそんなに完璧なやつじゃねえってことぐらいは分かるさ」
コンビニで万引きしようとしていた時のみづきの思いつめた表情は覚えている。
家族について語る時の諦めきった瞳を覚えている。
自分自身を
そして今日、デパートでひび割れた仮面を必死に被っていたみづきのつらそうな息遣いも見てしまった。
だから。
「なあ、みづき妹。あんたにとってみづきっていったいなんなんだよ」
「はあ!?」
「いいから。ほら、答えてみろ」
「なにそれ……」
不満げに眉をひそめながらも彼女は答えた。
「お姉ちゃんは、わたしの憧れで、目標で……とっても尊敬する人で」
「……」
「とてもかっこよくて、いつだって完璧で凛々しくて、背中も眼差しも真っ直ぐで、どんな期待にだっていつも完璧に応えてて……」
「……」
「敵わないけど誇らしくて、とっても頼りになる――わたしの自慢のお姉ちゃん」
「ふーん、そうかよ」
それを聞いて、俺は思った。
きっとみづきはこれまでも、かくあれかしと押し付けられた
だけど一度は完璧を演じてしまったから、家族も、他人も、誰もそのひび割れに気づかない。そうしているうちにどんどん亀裂は大きくなって――ああ、そりゃあ万引きぐらいしたい気持ちになるのも無理はないよな。
そう納得した俺は、取り出した携帯灰皿にタバコの灰を落としながらみづきの妹に向けて問いかけた。
「あんた、祭りって行ったことあるか?」
「? ……あるけど、それがなんだってのよ。だいたい、ない人なんているの?」
「……んじゃ、みづきが弱音を吐いてるところを見たことはあるか?」
「お姉ちゃんがそんなこと言うわけないじゃないッ」
「愚痴を言ったり、不満や文句を口にしているのを見たことは?」
「なによッ、お姉ちゃんをバカにしてるの!?」
「俺がバカにしてんのは、みづきじゃなくてあんただよ」
「なッ……」
「愚痴も不満も文句も言わない、それができて当たり前――そんな理屈を押し付けられてる人間の内面がどんだけボロボロになっているのか。あんたにはきっと分からないんだろうよ」
吐き捨てて、俺は今度こそみづき妹の横を通り過ぎる。
「あんた、無神経なんだよ」
「なにを――ッ」
「俺に文句を言うよりも先に、見るべきもんがあるんじゃねえのか、あんたには」
呼び止めてきた声に被せるようにしてそう告げると、俺はその場を立ち去るのだった。
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