4-25

 24日の日光市の空は分厚い雨雲に覆われていた。夕方からは雪の予報が出ており、正午を過ぎた午後の最高気温は2℃。東京の気候に慣れた者には堪える寒さだ。


数日の生活に困らない程度には家具や家電、食器は揃っている。愁が別荘に運び込んだ荷物は新品の二組の敷き布団と毛布のみ。


 朝昼兼用の簡素な食事を済ませた二人は着替えや雪に備えた防寒具、足りない生活用品の買い出しに出掛けた。

別荘の駐車場で雨に打たれる車は愁の愛車のクーペではなく、黒色のSUV車。行き先は日光市今市いまいち地域にあるショッピングセンターだ。


『俺達に関する報道は何も出てないな』

「不確定要素が多いから正式公表できないのよ。私達が一緒にいる現場を誰かが目撃していたなら、指名手配犯が刑事を人質に逃亡って筋書きで報道に公表もできるだろうけど……」


 愁が美夜に連絡を寄越した新しいスマートフォンもSUV車も、用意したのは夏木会長の第二秘書だった日浦一真だ。日浦が警察の監視を掻い潜ってどのようにして車とスマホを入手したかは定かではない。


しかし美夜の上司と同僚は皆優秀だ。警察が日浦の周辺を捜査すればスマホの電話番号や車のナンバーもいずれ割り出してしまう。逃走を手助けした日浦は犯人隠避いんぴ罪に問われる。


「ねぇ、高校の先輩であなたが夏木コーポレーションの会長秘書になったことを知ってる人っている?」

『高校の先輩?』

「一課長の知人があなたの高校の先輩だったって聞いた。その人が指名手配のニュースを見て一課長に連絡してきたみたい。でもあなたの顔も名前も公表してないから、夏木コーポレーション会長秘書の肩書きを知ってる人じゃないかと思って」


 ハンドルを握る愁は顔をしかめている。捜査線上に浮上した愁の交遊関係には学生時代の友人知人はひとりもいなかった。


彼が夏木コーポレーションに勤務している事実を知らない同級生や先輩後輩が大半だろう。

けれど昨夜、上野一課長を鍋パーティーに招待した愁の先輩を名乗る人物は、報道に公開された夏木コーポレーション会長秘書の肩書きだけで指名手配犯が木崎愁だと気付いたのだ。


『夏木コーポレーションに入ってから高校の関係者とは誰とも会ってねぇし、心当たりねぇな。……まさか渡辺先輩の関係か』

「渡辺先輩?」

『高校一年の時、生徒会室の隣の空き教室が俺の居場所だった。うるせぇ奴らに囲まれて教室で過ごすよりも、静かに本が読めて快適だった。ただ、あの頃に生徒会役員だった三年の先輩達とはたまに喋ったりして、渡辺先輩は生徒会メンバーの友達』


語られる愁の高校時代は非常に彼らしい。


『今年の初めだったか……夏木の付き添いで大学の講演会に出た時に大学関係者に渡辺先輩がいたんだ。情報源はそこかもな』

「一課長に連絡してきたのはその渡辺さん?」


 美夜の問いに愁はすぐには返事をしなかった。水溜まりをタイヤで弾きながら片側一車線の国道を走る車が、鬼怒川温泉地域を通り過ぎた。


『今の捜査一課長って上野恭一郎だったよな』

「そうだけど……」

『じゃあ、連絡してきたのはさしずめ渡辺わたなべりょう木村きむら隼人はやとのどっちかだな』


 また知らない名前が登場する。ひとりで納得する愁の隣で美夜は少し頬を膨らませ、説明を求める睨みの眼差しを送った。

膨れっ面の美夜の頭を、苦笑いの愁は空いた片手で軽く撫でた。


『拗ねるなよ。お前のとこの一課長の交遊関係は大方調べてある。上野恭一郎の親しい人間の中に当時の生徒会メンバーだった俺の先輩がいたんだよ。それが木村隼人』

「木村さんが文化祭の脚本のためにロミジュリの本を貸してくれた先輩?」

『ロミジュリの本を貸してくれた先輩は、人気バンドのギタリスト』

「はぁ? ちょっと意味がわからない……」


どうしていきなり第三の登場人物に人気バンドのギタリストが出てくるのか、愁の交遊関係は不可解だ。


 上野一課長は彼がまだ警部の時代に遭遇した殺人事件の事件関係者と今でもプライベートで交流を持っている。その事件関係者が愁の高校時代の先輩である木村隼人と渡辺亮だった。愁はそれだけを話してくれた。


 九条大河、杉浦誠、小山真紀、上野恭一郎、ムゲットの白石夫妻……東京に置いてきた大事な居場所。東京に置いてきた大事な人達。

愁との逃避行の道を選んだ美夜が負った代償は大きい。


『九条のこと考えてるだろ。顔に書いてある』

「相棒の名前はどうしても消せないよ。九条くんにも上司や同僚達にも申し訳ないって思ってる」


 東京に置き去りにしたバレッタの下には不甲斐ない相棒としてのせめてもの懺悔ざんげ。あの謝罪のメッセージは九条の遠回しな告白に対する美夜の遠回しの答えだ。


それ以降は愁も九条の名前を一言も出さなかった。

九条の隣か、愁の隣か。刑事の使命か、女の愛欲か。相反する感情が渦巻く美夜の心情を愁も汲んでいる。


 今市地区に建つショッピングセンター上空も寒空から弱い雨が降っている。屋外駐車場の片隅には古くなった固い雪が積もっていた。


 店舗の出入口に飾り付けされたクリスマスツリー、店内に流れる賑やかなクリスマスのメロディ。

赤と緑とサンタクロース、クリスマス一色の店内を多くの家族連れが行き交っている。


今日は月曜日だが、日曜日が天皇誕生日だったために24日のクリスマスイブが振替休日となった。両親と子どもが揃ってクリスマスの外出を楽しむ光景があちらこちらで見受けられた。


「休日のスーパーやショッピングモールの空気が昔から苦手だった。どこを見ても普通の幸せそうな家族しかいなくて」

『“普通の家族”も早々いないぞ。実はあそこの家族はどっちかが浮気してたり、大人しそうに見えるあの娘も家の中では反抗期かもしれない』


 一応の変装のつもりで愁は伊達だて眼鏡をかけている。見慣れない眼鏡姿の彼の瞳はある家族に向いていた。

ショッピングセンター内のケーキ屋の前でクリスマスケーキを選ぶ一組の家族。ケーキが陳列するガラスケースに張り付く小学生の娘と両親が笑い合っている。

母親の腹部にはもうひとりの命の存在を示す膨らみがあった。


「お腹の子が浮気相手の子どもとか?」

『可能性はある。妊娠中の旦那の浮気もよくある話。蓋を開ければ問題のない家族はいない。表からは幸せに見えるように見栄張って装ってるだけだ』

「そうね。でもその幸せすら装えなかった私には、休日にこういう場所に集まる人達が眩しかった」

『休日にこういう場所に買い物に来てる俺達も、どう見えてるだろうな』

「刑事と犯罪者には見えてないといいな」


 服屋で互いの服を選び合う美夜と愁も表側から見れば幸せそうに見えるカップルだ。二人が抱える事情などショッピングセンターですれ違うだけの人間は知りもしない。

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