4-24
ぽつり、ぽつり、また、ぽつり。一定のテンポを刻んで踊る雨音を美夜は夢うつつに聴いていた。
頬に触れる空気は氷みたいに冷えている。冷えた空気から逃れようと、彼女は毛布にくるまって寝返りを打った。
目を閉じたまま特別に暖かい場所を探して布団の中に潜り込む。新品の匂いがする毛布とシーツの狭間に美夜が知るぬくもりが隠れていた。
最も安心を得られるぬくもりに力強く引き寄せられて、美夜は眠気の残る重たい瞼を押し上げた。
「起きてたの?」
『今起きた』
美夜が潜り込んだ場所は同じ布団で仰向けに寝そべる愁の腋の下。ここは美夜にとっての暖かな楽園だ。
冷えた空気に晒された鼻先も頬も、愁に寄り添えばすぐに温まる。
布団から片手を伸ばした愁は畳に転がる腕時計を一瞥した。
人の話し声もしない、車の音も聞こえない。降り続く雨の音だけでは今が何時かもわからない。
『もうすぐ12時か。どうりで腹も減るわけだ』
「サービスエリアのパン屋で買ったパンの余りあったよね。とりあえず朝ご飯それでいい?」
『ん。あとコーヒーな』
港区の芝浦南ふ頭公園で落ち合った美夜と愁は首都高から東北自動車道を通り、サービスエリアで仮眠休憩を挟みながら24日の午前4時頃に栃木県日光市、
一部が別荘地区になっている田舎町には、2年前に夏木十蔵が秘密裏に購入した別荘がある。
元々は大阪在住の実業家の所有物件だったが、事業失敗による借金を背負った実業家は栃木の別荘を手放した。それを買い上げたのが夏木十蔵だ。
愁は別荘の件は伶も舞も知らないと言っていた。ここは伶達も夏木コーポレーションの幹部達も知らない秘密の隠れ家。
別荘に到着早々、凍えた身体を風呂で温め合った。車中での仮眠では寝た気がせず二人とも眠気は限界に達していたはずなのに、風呂場で肌を交わらせた数分間は思い出すだけで赤面する。
結局、布団に入って眠ったのは午前6時頃だった。二人して夜更かしの朝寝坊だ。
定期的に掃除業者がメンテナンスしていた別荘は、空き家でも比較的綺麗な状態を保っている。電気ガス水道も通っていた。
別荘の購入記録や別荘に関わるすべてのデータや書類を愁は姿を消す前に抹消したそうだが、警察が隠れ家を突き止めるのは時間の問題。愁の見立てではここに雲隠れしていられる期間も2、3日とのこと。
今頃、九条達は美夜の足取りを追っているだろう。
警察が掴める足取りはせいぜい美夜が溜池山王駅から新橋駅に向かい、新橋からゆりかもめ線を利用して芝浦ふ頭駅で下車したところまで。
そこから先の美夜の行動は目撃証言がなければ警察は追えない。芝浦南ふ頭公園への道すがら美夜は誰ともすれ違わなかった。目撃証言は皆無に等しい。
警察が周辺道路の防犯カメラを捜索することを見越した愁は芝浦南ふ頭公園の最寄りとなる芝浦出入口からは首都高に乗らず、渋谷区の富ヶ谷出入口より首都高中央環状線に乗り入れている。
美夜と愁の逃避行経路はまだ警察に知れていない。
ひとつの家の同じ布団で目覚め、洗面台に並び立つ二人のかりそめの夫婦生活。今の美夜と愁は刑事でも指名手配犯でもない、どこにでもいるありふれた男女だ。
「髭伸びてるね。シェーバーは荷物に入ってなかったの?」
『ない。今日買ってくるか。でも髭あった方がよくない? 変装になるだろ』
「そうだけど……髭が肌に当たるとチクチクして痛かった」
『わかった剃りますよ。じゃないとこういうこともさせてもらえないからな』
洗顔を終えた愁の顔が美夜の首筋に沈んだ。二人きりの時はとことん甘えん坊になる愁の挙動に今さら戸惑いはない。
『お前も髪伸びた?』
「半年は切ってない。そろそろ切らないとって思ってたんだけど……切る必要もなくなっちゃったね」
愁が一束すくった癖のない黒髪は胸の真上まで伸びていた。
警察官になってからはロングヘアとも無縁になった。ここまで伸びた髪を見るのは大学時代以来だ。
「長い髪の方がいい?」
『似合っていればどっちでもいい。けどロングの美夜も見てみたい』
「じゃあ伸ばそうかな」
中身のない男と女の陳腐な会話劇。こんなくだらないやりとりをしたくなる心境の変化に彼女自身が驚いている。
ふたりは、ひとりでも生きていけた。
ふたりは、ひとりでも寂しくなかった。
ふたりは、ふたりを知ってしまった。
彼女はやっとただの女になれた。
彼はやっとただの男になれた。
ふたりはふたりでいたかった。
他人から見ればふたりが選んだ道は破滅の道。ここは楽園と見せかけた地獄の果てかもしれない。
でもふたりは“ふたり”を選んだ。
破滅の道にある刹那の幸せを噛み締める彼女と彼の顔には微笑みが宿る。
これはふたりの最後と決めた恋だった。
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