4-23

12月24日(Mon)


 初めて足を踏み入れた神田美夜の自宅は捜査一課の彼女のデスクと同様に、綺麗に片付いた部屋だった。シワもなく整ったベッドには家主が寝た形跡はない。


『どこ行ったんだよ……』


溜息に漏れた独り言を吐いて九条大河はソファーに腰を降ろした。カーテンが半分開いた窓からは弱々しい太陽の光が差し込んでいる。


 異常事態の発覚は今日午前8時頃。出勤時間を過ぎても美夜は警視庁に現れなかった。

彼女の性格的に無断欠勤は考えられない。何度か美夜のスマートフォンに連絡を試みたが、電源が切られていて全く繋がらなかった。


それだけならスマホの電池切れと体調不良による欠勤連絡の失念と、彼女の性格的には無理があってもまだ理由もまかり通る。

けれど昨日、美夜は手錠を携帯したまま帰宅していた。勤務時間外の手錠の持ち出しは禁止されているとわかっていながら彼女は規則違反を犯した。


 無断欠勤と規則違反は明らかに美夜らしくない。現在、九条と杉浦、真紀が手分けして美夜の行方を捜しているが、彼女の足取りは午前11時を過ぎた今も掴めない。


 九条は赤坂の美夜の自宅に向かった。マンションのエントランスに設置された防犯カメラには昨夜22時50分頃にマンションを出る美夜の姿が映っていた。

そこから今朝までの約7時間分の映像を確認したが、23時前にマンションを出た美夜が再び帰宅した映像はなかった。


美夜の自宅からは赤坂駅と溜池山王駅の二駅利用が可能だ。溜池山王駅には杉浦が聞き込みに行っている。


 無断欠勤、電源が切られたスマートフォン、手錠の持ち出し、夜間の外出、不自然に整理整頓された部屋。これらの事実から導き出される結論はたったひとつ。


 相棒の九条に一言も告げずに美夜は木崎愁に会いに行った。おそらく美夜と愁は今も行動を共にしている。

規則違反を犯してでも手錠をたずさえた美夜は刑事として愁を逮捕しに行ったのか、女として愁と逃げる道を選択したのか、現時点では判断しかねる。


どちらでも警察官としてただでは済まされない。美夜が愁を逮捕して警視庁に帰って来たとしても何らかの処罰が下るだろう。


 視界の片隅に入り込んだ物体はチェストに置かれた赤色のバレッタ。美夜の誕生日プレゼントに九条が贈った物だ。


バレッタの下には紙が挟まっている。飾り気のない罫線のメモ用紙に書き置きされた“ごめんね”の四文字は生真面目な美夜の性格と同じ、達筆で綺麗な文字だった。


『何が……何が、“ごめん”なんだよ……。ごめんだけじゃ……わかんねぇんだよ……』


 勝手にいなくなって“ごめん”? 遠回しの告白に対する“ごめん”?


き止められずに溢れる涙が頬を流れる。震える両脚はやがて崩れて、側のチェストにすがるように九条は大きな身体を床に丸めた。


 こんなに心が痛むのはいつぶりだろう。失恋の痛みに重いも軽いもないが、今回の喪失の痛みは重症だ。

九条と美夜の間を流れる感情は恋だけではなかった。多分、恋だけの方がもう少し、残された者の心のひび割れは深くなかった。

恋だけで終わっていたかった。


感情の抑制が効かない。泣きたくなくても流れる涙を止める術が見つからず、バレッタと一緒に握りしめたごめんねのメモ用紙もぐしゃぐしゃによれて湿ってしまった。


 スマートフォンがスーツのポケットで震えている。頭を垂らしたまま袖口で涙を拭い、杉浦刑事の通話に応答した。


{溜池山王駅で確認がとれた。23時頃に銀座線ホームの防犯カメラに神田らしき女の姿が映っていた}

『……わかりました。俺もそっち合流します』

{……いや、俺ひとりで大丈夫だ。神田の部屋にいるのは辛いかもしれないが、お前はしばらくそこで神田の行き先の手がかりを探してくれ。まず涙拭いて、水でも飲んで落ち着けよ}


 どんなに取り繕っても電話の向こうの杉浦に涙声を見抜かれていた。先輩刑事の優しさに触れた途端、再度溢れる涙に苦笑して九条は鼻をすする。


『……杉さん……。俺、神田のことが好きでした。刑事としても女としても』

{知ってる}

『ちょ、えー? 何でですか……っ! 南田が喋りました?』

{南田からは何も聞いてないが、九条はわかりやすいんだよ。神田に惚れてるんだなぁとお前達見ていて思ってた。小山さんも一課長も気付いてる}

『勘弁してくださいよぉ……。じゃあ、一課の人全員に俺の気持ちがバレてるようなものじゃないですか……』

{そうかもなぁ}


わざと茶化してからかってくれる杉浦の気遣いが有難い。


 小山真紀も杉浦誠も上野一課長も皆、本気で美夜を心配している。皆、美夜を責めるよりも美夜の安否を気にしていた。

こんなに優しい場所を捨ててまで、こんなに優しい人達を頼らずに、神田美夜はひとりで決着をつけようとしている。


そういう女だったと、忘れかけていた彼女の本質。そういう女だったよな、と置き去りのバレッタに話しかけても答えは返らない。


 不自然に整頓された部屋は二度とここに帰らない意志の表れ。警察の捜査が入ることを見越して九条宛に書き残した四文字の置き手紙。


 美夜はもう九条の隣には戻らない。手を伸ばしても届かない場所に彼女は行ってしまった。

愛する犯罪者と共に……。

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