4-22

 ゆりかもめ線、芝浦ふ頭駅東口の階段を下って地上に降り立った神田美夜は街を流れる冷えた空気に身を竦め、マフラーに顎先を埋めた。


スマートフォンの時刻表示は23時42分。真冬のこんな時間に出歩く人間が他にいるはずもなく、街灯に照らされた歩道に揺れる人影は美夜の影のみ。


 彼女は首都高沿いに伸びる歩道を南に歩いた。上空の首都高では今も車が駆けているだろうが、下の道路は先ほどから車とも人ともまったくすれ違わない。


 こうして誰もいない夜道を歩いているとふいに、この世から自分以外の人間が全員消滅してしまったかのような奇妙な感覚に陥る。けれど消滅したのは本当は彼女の方で、静寂しか存在しないここは、あの世とこの世の狭間の道?


時々、生きていることも曖昧になる。

時々、生きている理由も曖昧になる。


 選んできたと思っても選ばされてきた。

ひとりで生きてきたと思っていても誰かに生かされてきた。

今もそう。選んできたと思っても相手に選ばされている。


 ババ抜きゲームの最終局面。相手が持つカードは二枚。

ジョーカーを引く? 引かない?

トリガーを引く? 引かない?


 引き返すなら今しかない。でも美夜は道を歩む足を止めない。

地図の示す経路に従ってゆるくカーブする歩道を道なりに進み、虹色にライトアップされたレインボーブリッジの真下に到着した。


 この先は芝浦南ふ頭公園となっているが、公園に出入りできる出入り口は門が閉まっている。柵に張り付けられた公園の利用案内を見れば公園の利用時間はとうに過ぎていた。


要するに閉じた門を越えて来いとの要求だ。刑事相手に不法侵入を指示する不届き者はどうせ今頃、港区の条例を無視して煙草でも吸っているのだろう。


 紅椿学院高校の裏門よりは背の低い柵を軽々と越えた。同じ月に二度も閉じた門扉を乗り越えた経験は美夜の人生初めてのこと。


5センチヒールのショートブーツが鈍い靴音を鳴らして着地した。不法侵入の身だ。なるべく足音は立てたくない。


 挙動不審に周囲を見回したり、その場でもたついている方が怪しまれる。素早く出入口から離れた美夜は園内の駐車場を通過して右に曲がった。


 運河に面した散歩道に人が立っている。闇を流れる紫煙が風に乗ってゆらりと舞い、近付く美夜の鼻先をかすめた。


「今はスマホがあるから便利ね。ロミジュリの時代も携帯電話があれば、ロミオもジュリエットとロレンスの計画を知れて、二人の逃避行は成功したのに」

『スマホがある14世紀のイタリアはロマンがねぇな』


再会の挨拶の一言目は、“こんばんは”でも“久しぶり”でもない。禁煙の条例違反も不法侵入も当然な顔で行う木崎愁に向けて美夜は自身のスマホを突き付けた。


「地図と一緒に添付してあった写真はなに?」

『旅行のお誘い。お前が謹慎してる最中も結局行けなかったし』


 早朝に届いたメールの送り主は美夜には自明であった。

[12月24日午前零時]のたった一行の本文と、メールに添付された二枚の画像。

一枚は芝浦ふ頭駅から芝浦南ふ頭公園までの経路が記された地図。もう一枚は雪景色の湖の写真だ。


『指名手配犯の俺は海で自殺したことになってるって?』

「鎌倉で夏木朋子を殺害後に海に入って自殺したと思ってる刑事が半分、あなたは生存していてどこかの組織で匿われていると思ってる刑事が半分」

『なんでまだ俺の顔と名前を公開しない? 顔も名前も世間に晒さねぇと指名手配した意味ないだろ』

「銃を所持したまま逃亡したからよ。顔と名前を公開してしまえば、民間人が街で見かけたあなたに迂闊に近付く危険もある。あなたが民間人相手に無闇に発砲する人間ではないと、うちの一課長は断言していたけどね」


 愁は水と陸を隔てる柵に背を預けて悠々と煙草を吸っていた。彼の隣に寄り添った美夜は運河の向こうの夜景に視線を送る。

あちら側はお台場だ。台場のテレビ局が目の前に見える。


「夏木朋子との関係は伶くんが話してくれた。夏木会長公認の関係だったのね。あなたと朋子に血縁関係がなくても、奥さんと息子の不倫関係を容認する夏木会長はどうかしてる」

『俺も含めた夏木家の人間は全員狂ってる。愛がなくても女は抱けると思ってたんだよ』

「愛がなくても抱いていたのよね。朋子の他にも沢山、彼女がいたようで。あなたの交遊関係を調べていてだんだん腹が立ってきた」

『ヤキモチ?』

「そうかも」


 ひとり、またひとりと愁に抱かれた女の情報が耳に入るたび心の奥が裂けて痛かった。お前も木崎愁にもてあそばれた女の一人だと言いたげな同僚達の哀れむ視線もわずらわしかった。


『伶と舞はどうしてる?』

「伶くんは検察に送られて拘留中、舞ちゃんは雨宮蘭子が京都に連れて帰ったよ。東京でひとりでいるよりはマシだろうって。蘭子はあなたから舞ちゃんの後見人を頼まれたって言ってた。蘭子とも隠れた繋がりがあったのね」

『言い訳させてもらうと蘭子は一度も抱いてねぇよ。向こうの好意は感じてはいたけどな』

「年下にも年上にもモテモテねぇ」

『俺は強がりでヤキモチ妬きの女刑事の世話で手一杯』


 いつもの携帯灰皿に煙草を捨てた愁の顔がこちらを向いた。薄笑いの口元を真一文字に結んだ彼の、やけに真剣な眼差しがたちまち美夜の心の奥を射抜いてさらう。


『俺を逮捕するか俺と地獄に堕ちるか。好きな方を選べ』

「ババ抜きだとどっちがジョーカー?」

『どちらもジョーカー』

「それはずるい」


愁の広げた両腕に迎えられ、辿り着いたぬくもりの中で今度は美夜の唇が愁の唇を迎えに行った。再会のキスは虹の橋と満月の真下。

触れて離れてまた触れて、唇の上で互いの体温を移し合う。


「寂しかった。置いてきぼりにされたみたいで……」

『ひとりにして悪かったよ。寂しがりで強がりでヤキモチ妬きの女刑事さんは世話が焼けるな』

「悪口ひとつ増えてない?」

『お前が本当は物凄く寂しがりだって俺は知ってる』

「偉そうに……」


 選んだつもりでも選ばされている。

ババ抜きの最終局面、彼女が選んだカードは微笑みのジョーカー。


 犯罪者に弄ばれた女?

そう思いたいなら勝手に哀れんでくれて構わない。

 破滅を選んだ馬鹿な女?

そうののしりたければご自由にどうぞ。


 この選択を綺麗な言葉で飾り付けて昇華はしない。

一緒にいたいから一緒にいる。

つまるところ人の選択などそんなもの。純愛でも高尚こうしょうでも何でもない。


 ふたりの真実はニュースも週刊誌もSNSも語らない。

ふたりの真実はふたりしか知らない。

彼女と彼にはそれで充分だった。

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