4-21

 ブラインドの外は静かな闇に呑まれている。

最後の仕事を終えた美夜はデスクに転がるボールペンや蛍光ペンをペン立てに戻し、いつも通り整理整頓をして席を立った。


「お疲れ様。先に帰るね」

『終わったなら手伝ってくれよ』

「私がそんな優しい女だと思う?」

『思いません……』


ひきつった笑顔の九条に片手を振って彼女は警視庁の建物を出るその時までポーカーフェイスを貫いた。


 雨の匂いが残る桜田通りを霞ヶ関駅に向けて歩く。

バッグには手錠が入っていた。個人に貸し出される手錠は識別番号で管理されているが、勤務時間外は手錠を携帯してはならないと決まりがある。


校則違反も遅刻も無断欠勤も無縁、九条が揶揄する優等生の道を歩んできた美夜の初めての規則違反。

窮屈な優等生からの脱却は少しの罪悪と高揚が交ざった不思議な気持ちだ。


(ジュリエットって柄でもないけど……。親に隠れて悪いことをするってこういう気持ちなのかな)


 修道僧ロレンスの導きで秘密の結婚式を挙げたロミオとジュリエットは晴れて夫婦となった。しかしロミオはジュリエットの従兄であるティボルトを殺してしまい、街から追放される。

ロミオがいなくなり、親から別の男との結婚を強いられたジュリエットは嘆き悲しんだ。


悲しみのジュリエットはロレンスに助けを求める。彼はある計略をジュリエットに持ちかけたが、狂った歯車の軌道修正は時すでに遅かった。

ロミオとジュリエットの恋物語に幸せなエンドマークはつかなかったのだ。


 この恋に幸せなエンドマークはつかないと彼と彼女は最初からわかっていた。

それでも……。

それでも離れたくなかった。

きっと、そう。理由はそれだけ。


        *


 東京で生まれ育った者も地方出身の者も東京と聞いて思い浮かべる風景のひとつにレインボーブリッジがある。


 東京のシンボルと言っても過言ではないレインボーブリッジは文字通り虹の橋の意味を持つ。しかしレインボーブリッジは常にその身を虹色に輝かせているのではない。


レインボーブリッジのライトアップの色は季節やイベントによって異なる。主塔の色は夏期は涼しげな白色、冬季は温かみのある白色と決められ、ケーブルイルミネーションは緑や青、ピンクと季節の催しごとに変化を見せ、人々を楽しませるのだ。


 虹の橋の名をつけられながらもレインボーブリッジが虹色に彩られる期間は12月から年明けまでのわずか1ヶ月。通常は24時の消灯時間も22日から24日までのクリスマスシーズンと大晦日はライトアップ時間が日の出まで延長される。


 薄曇りの夜空から黄金の満月が時たま覗く。まばゆい光に照らされたレインボーブリッジは月に繋がる橋のようだ。


 今宵は夜更かしが許された虹の橋のたもとで煙が揺れた。暗闇を蠢く影が二つ、向かい合って地面に伸びている。


『車の用意が整いました。タイヤもスタッドレスですよ。最低限の必要な物も運び込んであります』

『面倒かけたな。サツの動きはどうだ?』


煙の発生源は木崎愁が咥える煙草だ。彼は煙草を口に咥えたまま、日浦一真が差し出した車の鍵を受け取った。


『公安の古いツテに探りを入れましたが、捜査本部の見解も木崎さんが神奈川で入水した方向に傾いています。今は俺の監視も解かれていますよ。まさかあなたが東京に戻って来ているとは警察も思っていません』

『このクソ寒い時期に海に入る趣味はねぇよ』

『そうは言ってもわざと海で死んだと思わせるために車を捨ててきたんですよね。やはり策士ですよ』


 紫煙に目を細める愁と立ち並ぶ日浦も自分の煙草を咥えて火を灯した。そうして日浦が煙草を吸う姿を愁は初めて目にする。


人を殺した経験はあれども酒、煙草、女遊びやギャンブルとは縁遠そうな実直な会長第二秘書は、付き従っていた夏木十蔵が死してようやく本来の姿を愁の前で披露した。


『日浦が俺の考えを理解してくれるとは思わなかった』

『昔、世話になったボスと木崎さんが似ているんです』

『ボスって言うとあいつか、キングの側近の』

『はい。ボスも最後は木崎さんと似た選択をしていました。だからあなたとボスが重なるところがあって、つい援助をしたくなってしまったんです。それに俺は夏木会長をあるじだとは思っていません。俺の主は生涯、ボスだけです。この煙草もボスが好んで吸っていた銘柄なんですよ』


 追憶の瞳の日浦が吸う煙草は赤と白のパッケージのマールボロだ。愁のウィンストンと日浦のマールボロの煙が同時に夜風に揺蕩たゆたって空に舞った。

日浦が今も変わらず慕う彼のボスは刑務所の檻の中。二度と会えないボスの面影を宿した煙草を彼は旨そうに吸い込んでいる。


『木崎さんもやっと会長から解放されたんです。自分が思うままの選択をしてください』

『お前も人がいいな』

『ボスならどんな判断を下すか考えたまでですよ。ボスも俺と同じで木崎さんを助けて送り出していたと思います』


日浦がボスと慕う男とは過去に数回、仕事現場で顔を会わせた。最後に男と会ったのは犯罪組織カオスが壊滅する前だったが、あの男も日浦同様に犯罪者のくせして面倒みの良い、物好きな男だった。


『日浦。元気でな』

『木崎さんも。……お元気で』


 レインボーブリッジの真下で交わす最後の言葉。並び立つ二つの影はあちらとこちらに分離して、あちらは闇へ、こちらも闇へ。


ひとりになった愁は虹の橋のたもとにぽつんと立っていた。

雨上がり、満月の夜に待ち合わせ。


『逢い引きにしては、なかなか風情があるな』


 待たせた男の独り言。

この煙草が終わる頃にはまだ待ち人は来ないだろう。甘い煙草をゆっくりゆっくりくゆらせて、漆黒の長夜ながよに彼は溶け込んだ。

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