4-20
栄子は美夜を東京大学に進学させるつもりだった。美夜も幼い頃より母に言われるがまま東大を目指してきた。
初めて母に反抗した大学受験。美夜が選んだ進学先は東大ではなく、東大と同ランクの一橋大学の法学部。美夜が一橋大を選んだと知った時の顔面蒼白の母の顔は今も忘れない。
{ばぁちゃんも美夜ちゃんが警察官になると聞いた時はびっくりはしたなぁ}
「私が選んだ道を応援してくれたのはお祖母ちゃんと伯父さんだけだよ。あと、ちゃちゃ丸もか。ちゃちゃ丸ー? 起きてるー? ちゃちゃ丸ー?」
スマホのあちらとこちらで美夜の呼び声と猫のちゃちゃ丸の鳴き声が交差した。
{さっきご飯を食べてごろごろしてるところだよ。ちゃちゃ丸も早起きさんでねぇ、ばぁちゃんが寝てる枕元で飯くれぇって鳴いて催促してくるんだよ}
「ふふっ。じゃあ今はちゃちゃ丸のお腹はまんまるだね」
ふわふわの優しさの塊が幸せな顔で寝転がる姿が目に浮かぶ。あの毛むくじゃらの塊の側にいるだけで穏やかな気持ちになれた。
友達の結婚式を名目にした夏の帰省以来、祖母にもちゃちゃ丸にも会えていない。
「……私はお祖母ちゃんと、ちゃちゃ丸がいてくれたから大丈夫だったんだと思った。……だから踏みとどまれた」
{ん? 何て?}
「……ううん。そろそろ切るね。私も仕事行く準備するよ」
{朝ご飯はちゃぁんと食べるんだよ}
「わかってるって。お祖母ちゃんが陶芸教室で作ってくれたお茶碗、大事に使ってるよ。……じゃあまたね」
涙の気配を圧し殺して美夜は通話を終わらせた。
彼女のスマホのロック画面はいつかに撮影したちゃちゃ丸の写真だ。くりっとしたビー玉の瞳が美夜を見据えている。
「ちゃちゃ丸……。お祖母ちゃんを頼んだよ……」
*
刑事の日常は捜査、逮捕、被疑者の取り調べ、検察への送検手続き、また次の捜査の繰り返しだ。
今日は徳島県で逮捕された国本和志が警視庁に移送されてくる。国本の逮捕によって
美夜の仕事はエイジェント関連の聴取に限らず別件の事件の聴取や手続きも山積みだ。次から次へと降ってくる仕事を普段通りこなす彼女の覚悟に気付く者はいない。
『神田ー。これやってくれー』
「自分で片付けて。私も担当分だけで手一杯」
『もう無理。もうパソコン打ちたくねぇ……』
「冬場の外での張り込みよりは、内勤の報告書作業の方がよっぽど楽だと思うよ?」
書類の作成作業に音を上げる九条もいつもと同じ。砂糖とミルクをたっぷり入れた甘いコーヒーを飲む真紀と子煩悩な杉浦が菓子片手に交わす家族談義も捜査一課の日常風景。
時折、九条が同期の南田刑事の小言に噛みついて二人がいがみあう光景も、それを呆れた眼差しで傍観する多田真利子刑事と美夜のささやかな女同士の談笑も日常のワンシーンに刻まれる。
東京の天気は昼過ぎまでは激しい雨が続くが、夕方から雨は止むとの予報だった。雲に隠れて見えない太陽が人知れず西の空に沈んだ直後、雨の音も弱まった。
帰り支度を始める刑事達の中で捜査一課長の上野恭一郎も羽織ったコートの上からマフラーを巻いている。
『一課長、今日はもうお帰りですか?』
『鍋パーティーに呼ばれているんだ。あとよろしく。九条は報告書仕上げておけよ』
『任せてください。お疲れ様でした』
捜査一課のフロアを去る上野はサンタクロースとクリスマスツリーが描かれたおもちゃ屋の袋を二つ抱えていた。上野の黒いコートがもしも赤ければ、まさにプレゼントを届けるサンタクロースだ。
『一課長って独身でしたよね。一緒に鍋パーティーする相手がいたんだ。あの袋は子どもへのプレゼント?』
「鍋パーティーの招待は一課長にとって娘夫婦同然の人の家だからね。袋は子ども達へのクリスマスプレゼントでしょう」
事も無げに言い放った真紀の一言がパソコンのキーを打つ手を止めた。
『娘夫婦……え? 隠し子?』
「馬鹿ねぇ。一課長が娘みたいに可愛がってる子って意味。その子の旦那が偶然にも木崎愁の高校の先輩だったの」
九条と違って愁の名が出ても美夜はキーを打つ手を休めない。黙々と報告書を作成する美夜の頬に隣席の九条の視線が突き刺さった。
「指名手配のニュースを見て連絡くれたんだって。もちろん一課長は彼らが木崎を
愁の高校の先輩とは文化祭の脚本作りでロミオとジュリエットの小説を貸してくれた先輩か?
それとも別の先輩かもしれない。美夜でさえ愁の交遊関係はろくに知らない。
木崎愁の潜伏先を洗い出す過程で愁と男女の関係にあった女が何人も浮上した。
顔と身体を全身整形した歌舞伎町の人気風俗嬢、ヤクザの娘、ゴールデンタイムのドラマで頻繁に見かける三十代のバイプレーヤー女優など、女の交遊関係は世代、業界問わず幅広い。
愁と付き合いのある女の誰もが愁のジョーカーとしての顔を知っていた。彼女達が愁に会う目的の半分は愁の仕事への情報提供。
けれど愁とビジネスの関係と割りきれていた女はほんの数人。大抵の女は無謀と悟りつつも愁に恋心を抱いていた。
愁が姿を消した8日以降、彼女達の元に愁は連絡を寄越していない。彼女達が密かに愁を匿っている形跡もなく、木崎愁の捜索は暗礁に乗り上げていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます