4-19

 ──降り続く雨が赤い液体と共に道路に流れていく。赤い傘を差す少女は棒立ちになってその光景を見下ろしていた。


 ドミノ倒しになった自転車の群れに紛れて友人が倒れている。友人が履いているヒョウ柄のミニスカートはめくれあがり、日に焼けた太ももに雨粒が当たる。

ピンク色のトレーナーを着ている彼女の腹部には赤い血が滲んでいた。


 ガタンガタン……列車が線路を通過する。もう友人の唇も指も動くことはない。恐る恐る名前を呼び掛けても反応はなかった。


 携帯電話のボタンを押す手の震えが止まらない。

1……1……0、押した直後に繋がった相手に向けて少女はか細い声で伝えた。


「友達が……死んでいます」


 それだけを言うのが精一杯だった。場所は川口かわぐち蕨陸橋わらびりっきょうの自転車置き場と伝えて電話を終えた少女の頬には涙が流れている。


流れた涙を袖で拭い、少女はふと陸橋の上を見た。どうして陸橋を気にしたのかはわからない。でも誰かに見られている気配を感じた。


 陸橋の階段のちょうど真ん中辺りに黒い傘を差した黒いスーツの男が見える。

少女は男の名前を知っていた。男が何者であるかを知っていた。男のぬくもりを知っていた。


ほんの一瞬、少女と男の視線が交わった。会いたかった、と雨音に紛れて聴こえた幻聴が泣いていた少女の瞳をさらに潤ませる。


 遠くでパトカーのサイレンの音がする。警察が到着する前に男は階段を上がり、陸橋の上に消えた。


        *


12月23日(San)


 閉めきったカーテンの向こうから雨の音がした。雨はそれだけで彼女を憂鬱に引き込み、封印した記憶の扉を無理やりこじ開けようとする。


 雨の音に紛れて聞こえたスマートフォンのバイブレーション。冷えた空気に身体を丸め、毛布を被ったまま彼女はベッドサイドのスマホを掴んだ。


(……メール?)


スマホに表示されたメールマークの通知に神田美夜は顔をしかめる。外はまだ夜のエピローグを纏う午前5時半、こんな時間にメールを送りつける非常識な人間も、アルファベットと数字が羅列するメールアドレスにも心当たりはない。


 フィッシングメールの可能性も視野に入れて慎重にメールを開いた。メールの本文を一読し、メール欄に添付された二枚の画像を眺めた美夜は、溢れる笑いを抑えられなかった。


「馬鹿じゃないの……?」


笑いながら呟く悪態の独り言が雨音の響く室内に消える。


 覚醒の直前まで見ていた夢は10年前のあの日の悪夢だった。

春の雨、地元の駅の風景、当時使っていた二つ折りの携帯電話、ファミレスのメニュー、赤い傘、ドミノ倒しの自転車、佳苗が着ていた服、佳苗の死に顔……何もかもが10年前の松本美夜の視点と同じ景色だった今日の夢は、ひとつだけ10年前と違っていた。


 現実では美夜がいた自転車置き場から陸橋の上にいる人間の顔を正確に認識することは美夜の視力が良くても難しかった。

けれど夢の中の松本美夜は陸橋にいる男の名前を知っていた。男が何者であるかを知っていた。男のぬくもりを知っていた。


曖昧で輪郭のぼやけた黒いスーツの男の顔が今日の夢では鮮明に見えたのだ。

これは10年前の答え合わせ?

それとも脳が勝手に作り上げた妄想?


 体温で暖まった布団に包まれて彼女は目を閉じる。いつもいつも、あの男との記憶の傍らには雨が寄り添っている。

雨の夜に出逢い、雨の夜に別れ、そしてまた……。


 再び毛布の渦から片手を伸ばして掴んだスマホを、ベッドに寝そべった姿勢で片耳に当てた。小気味いい電話のコール音がしばらく続く。

この時間は起きて朝食の仕度や洗濯をしている頃だろう。


{はい、神田です}

「……おはよう、お祖母ばぁちゃん。朝早くにごめんね」

{美夜ちゃん? どしたの、こんな早くに}

「うん……お祖母ちゃんと、ちゃちゃ丸どうしてるかなーって思って。東京は雨なんだけど、そっち雨降ってる?」

{いやぁ、全然。でもどんより暗くて曇ってるよ。東京が降ってるなら直にこっちも降るねぇ}


 祖母の家がある埼玉県戸田市は東京の板橋区から荒川を挟んだ向かい側。雨雲の流れによってはあと数十分後には埼玉も雨模様となる。


「お正月そっち帰れないかも。仕事忙しくて。ごめんね」

{そっかぁ。警察さんは年の暮れもお正月も関係ないもんねぇ}

「年の暮れもお正月も悪さする人達がいるからね。……お母さんにも連絡しようと思ったけど止めちゃった。冷たくされたらどうしようって怖いみたい。二十八なのに小学生の子どもみたいだよね」


祖母への電話の前、アドレス帳から選んだ番号は母の携帯番号だった。躊躇の末に押せなかった通話発信のボタン。


{美夜ちゃん、ごめんなぁ。ばぁちゃんが栄子えいこに厳しくしてきたせいで、美夜ちゃんも辛い思いしたなぁ}

「お祖母ちゃんは悪くないよ。お母さんと私の相性の問題。親子でも違う人間だから相性はあるよね。それにお母さんは警察に入った私をまだ許してないのよ」


 警察官の職業は初めて自分で選んだ道だった。

子どもの頃は母の言うとおりに勉強して、母が選んだ進学塾に行き、母が選んだ高校に通った。美夜の進路はいつも母親が選んできた。

そうすれば間違いがない、立派な大人になれると教育されてきた。


 立派な大人とは何? 間違いがない?

勉強は確かに裏切らない。学べば学ぶほど身になり、勉学が苦痛だとは思わなかった。


でも母が口癖のように語る立派な大人の人物像が美夜にはいまいち理解できなかった。

母も父も、美夜にしてみれば決して立派な大人ではなかったから。

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