4-18
木崎凛子の骨はひとまず最寄りの鎌倉警察署に送られた。美夜達が北鎌倉を出る頃には西の空が茜色に染まりつつあった。
『東京戻る前に寄り道しない?』
「主任に怒られるよ」
『平気平気』
九条の発案で決まった寄り道の行き先は鎌倉の坂ノ下地区。国道134号線沿いの駐車場に車を停めた二人は海風が吹き荒れる海辺の歩道に降り立った。
坂ノ下地区の海岸線に作られたタイルの遊歩道を歩く美夜の後ろを九条が遅れてついてくる。彼女は時折足を止め、
『木崎は海で自殺したと思うか?』
「まさか。あの人は自殺するような人じゃないよ」
木崎愁の愛車はここから近い
由比ヶ浜周辺の江ノ島電鉄
神奈川県内のあらゆるホテルや宿泊施設を手分けして聞き込み回っても、いまだ愁に関する情報は得られない。愁の足跡は由比ヶ浜で途絶え、彼は忽然と姿を消した。
警視庁は雨宮冬悟と夏木十蔵、朋子夫妻殺害容疑の重要参考人として夏木コーポレーション会長秘書を氏名と顔は非公開の状態で8日午後に全国指名手配。北海道から沖縄まで四十七の都道府県警察が木崎愁の行方を
10日現在、木崎愁に対する捜査本部の見方は二つに割れていた。愁は海で
木崎愁の協力者候補で有力な人物が夏木十蔵の第二秘書を務めていた日浦一真だ。夏木十蔵邸の銃の保管部屋については日浦は知らないの一点張り、日浦が夏木十蔵と愁の裏の仕事を手伝っていた証拠は出なかった。
日浦には監視の刑事がつけられているが、今のところ彼に目立った動きはない。
海風が美夜の髪をなびかせる。彼女は風で乱れた髪を手ぐしで整えてひとつにまとめ、コートのポケットから取り出した赤いバレッタで留め上げた。
「あの人と初めて会った日に彼が読んでいた本が梶井基次郎の
『ああ……春に紺野萌子の聴取した時にお前と萌子がその本の話題で盛り上がってたよな。それが木崎の愛読書だったのは偶然というか、何と言うか』
確かに偶然とは面白い。愁との相席は紺野萌子の聴取をした春雷の夜だった。
同じ日に別々の人間と同じ本の話題を語り合っていた。萌子も桜の木の下には死体が埋まっていると信じていた人間だ。
「初対面で他に適当な話題もないから私達はひたすら梶井の本の話をしていた。桜の木の下に死体が埋まってると思うって私は彼に言ったんだよね。あの時、どんな気持ちで私の話を聞いていたのかな。自分が殺した母親の骨が木の下に埋まっているのにね……」
世界が闇に侵食されてゆく。タイル張りの遊歩道に並び立った男と女は暗色と街のライトに彩られた同じ海を眺めた。
『神田。一生に一度の頼みがある』
「九条くんからの頼み事は嫌な予感しかしないなぁ。報告書は代行しないからね?」
『まぁ待て、まずは話を聞け』
大きな手のひらがジャンケンのパーの形で美夜に向けられる。まぁまぁと、不機嫌な子どもをあやすような仕草をした彼は開いた手で拳を作り、口元に当てて咳払いをした。
そんな風に芝居がかってまでして行う“一生の頼み”とはなんだろう?
『俺は神田が気が多くない女だってわかってる。木崎が居なくなってすぐ次の男に切り替えできる女なら俺だって望みが持てたし、積極的に口説いてた』
「今、私は九条くんに口説かれてるの?」
『口説いていいなら口説くけど、お前はそれを望んでないだろ? 俺も今はそれは望まない。弱ってる女につけこむほど卑怯じゃねぇよ。雪枝ちゃんとも、いずれちゃんと向き合わないといけないしな』
彼の含みのある言い回しが、いつかの未来への淡い期待を匂わせていた。
たとえば美夜と九条のどちらかが警視庁捜査一課を去る時。バディではなくなったいつかの二人はもしかしたら男と女の関係になれるかもしれない。
九条の人間性は嫌いではない。彼への好感が、やがては恋愛の好感に傾くかもしれない。そうならないかもしれない。
美夜も、九条が気が多くない男だと知っている。簡単に美夜以外の女に目移りする男ではない。
もしも美夜が九条に恋愛感情を抱いても九条の隣には成人を迎えた雪枝や、別の相手がいるかもしれない。
未来は美夜にも九条にもわからない。
ここにある確かな真実は空と海。風と水。人と大地。男と女。二人の刑事。
『だから男と女の関係は無理でもさ、バディとして俺の隣にずっといて欲しい』
承諾も拒絶もできない頼み事。無言の美夜が答える代わりに
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