4-13
日浦への業務連絡を済ませた愁は最上階から地下に降りた。日浦には事の次第を話したが、警察から連絡が入るまでは夏木の死亡は知らないフリをしていろと言い含めてある。
銃の保管部屋に入室できる虹彩と指紋のデータは愁のみが登録している。警察が保管部屋を見つけてもあの部屋には愁の痕跡しかない。
警察に見つかると厄介なデータはひとつ残らず抹消し、ジョーカー関係のデータの宝庫となっていたノートパソコンやタブレット端末も持ち出した。
車に乗り込んだ愁はもう一度、伶のスマホに通話を繋げた。片耳に当てた白色のスマホから漏れる軽快な呼び出し音はなかなか途切れない。
待ち時間に咥えた煙草に火を灯す。愁が最初の紫煙を吐き出した時に、呼び出し音がぷつりと途切れた。
『……伶』
{愁さんごめんなさい}
親が射殺された姿を目にした10年前でさえ、伶は平然としていた。こんなに弱々しい伶の声は愁も初めて耳にする。
『謝らなくていい。夏木十蔵は俺が殺した』
{会長は……生きていたんですか?}
『俺が見つけた時にはまだ息があった。安心しろ。しぶといクソジジィの息の根はお前の代わりに止めてやった』
{……ははっ。愁さんはやっぱり凄いですね……}
伶の
スマホ越しに伶の吐息が聴こえる。吐息の背後にはざわつく街の雑踏がBGMの役割を果たしていた。
『どこにいる? 迎えに行くから居場所を教えてくれ』
{言えない。まだやることが残ってる。俺は初めて自分の殺意で復讐を遂げるんです。舞のために……}
最後にそう言い残して伶は強制的に通話を終わらせた。再度、連絡を試みても伶はスマホ本体の電源を落としてしまったようで繋がらない。
終電までは時間がある。タワーマンションの最寄り駅は日比谷線の神谷町駅。そこから向かえる場所は、六本木か恵比寿……恵比寿で乗り換えれば渋谷にも新宿にも行ける。
伶が繁華街の片隅で夜を明かすつもりだとしても、渋谷や新宿に出られたら人の多さで捜し切れない。
思案する時間はなかった。数秒で自身がとるべき行動の解答を導き出した愁は世田谷方面に車を走らせ、世田谷区の玉川インターから第三京浜道路に入る。
愁の車は第三京浜から横浜新道に、そして横浜横須賀道路を南下した。深夜の有料道路は渋滞もなく、道路脇に等間隔で立つ淡いオレンジの電灯が闇夜を徘徊する浮遊霊に見える。
ひとりぼっちの夜道で考えるのは伶と舞のこと、美夜のこと。
ほんの少しのボタンの掛け違いで物事はあらぬ方向に進む。伶の行動は予想外ではあったが、いつかは訪れると想定もしていた。
拳銃の残りの弾は三発。最後の二発の使い道を愁はまだ迷っていた。
朝比奈インターで有料道路に別れを告げ、車は片側一車線の県道を西方面に進み始める。寝静まる者と夜更かしの者が混在する町は住宅街に灯る光もまばらだ。
そろそろ頃合いだろう。信号待ちに愁はスマホを操作してある人物を呼び出した。
{……もしもし}
『その声は寝起きだな』
{今何時だと思ってる? ……どうしたの?}
スピーカー設定にしたスマホから聴こえる神田美夜の声が凍えた心を温めてくれる。就寝していたと思われる美夜の様子から察して、夏木十蔵の殺害はまだ警察に伝わっていないようだ。
夏木邸のリビングの防音設備では銃声は外に聴こえない。他の階の住人やコンシェルジュも最上階で起きた殺人事件を知らずに今も平穏な夜を過ごしている。
夏木の殺害を知らせた日浦も裏で上手く動いているだろう。
『夏木十蔵を殺した。死体は夏木の家のリビングに転がってる』
絶句する美夜に愁は手短に事情を話す。
伶が夏木十蔵を殺害しようとしたが失敗、その後に愁が夏木を発見した時には伶の姿はなく、意識を取り戻した夏木十蔵を愁が撃ち殺したこと。
伶が愁に居所を教えず行方をくらませたこと。
{伶くんはどこに……}
『伶は車の免許は持ってるが、あいつ専用の車はない。移動手段は電車……神谷町駅からどこかに向かったはずだ。俺の勘だが、伶は
{五反田? 伶くんは誰を殺すつもり?}
『伶の一番大事な人間は舞だ。舞は世間の批判に晒されて精神がぶっ壊れてる。舞をそんな風にした張本人に伶は復讐するだろうな』
復讐は新たな復讐を生む。
伶が誰の殺意の代行でもなく、己の殺意からの復讐を実行する相手で考えられる復讐相手は、夏木十蔵を除くとあとひとりしか思い浮かばない。
{まさか……雪枝ちゃん?}
『
雪枝の処分は家庭裁判所の決定待ちだ。雪枝は未成年であり、結果的に犯人グループに利用された形でもあるため処罰の決定に時間がかかっていた。
場合によっては法で裁かれないケースもあると、夏木コーポレーションの顧問弁護士から愁と伶は聞かされている。
自業自得とは言え、いじめを犯した舞が人生の代償を負い、一四〇〇人の無関係な人々の命を巻き込む犯罪に手を貸した雪枝が法で裁かれない……おそらくそんなことはなく雪枝には何らかの罰が下るだろう。
しかし、雪枝が無罪放免となれば伶は絶対に雪枝を許さない。いじめと学校立てこもり、罪の重い軽いの問題ではなく、心情の問題だ。
{伶くんの捜索と雪枝ちゃんの保護は至急手配する。……それで愁はどこに向かってるの? 車の音が聞こえるけど運転中?}
北鎌倉駅前の県道を左折した愁は道幅の狭い坂を上がっていく。やがて現れた闇に浮かび上がる南欧風の屋敷のガレージに車を停めた。
『せめて舞を夏木の家から解放してやりたい。このクソみてぇなしがらみを全部、俺が終わらせる。……美夜、伶と舞を頼む』
何かを悟った美夜が息を呑む気配がスマホの向こう側に漂っている。
{待って。あなたは何を……}
『トロイの木馬、それがジョーカーの役割なら、終止符を打つのは俺だ。ごめんな』
美夜との通話を終了させた彼は車を降りた。人感センサーで明滅する玄関ポーチのダウンライトが愁を照らす。
夏木家別邸の玄関を靴を脱がずに通過した。この時間なら家主は寝入っている。二階の寝室の扉を静かに開け、するりと身体を滑り込ませた。
ナイトテーブルに置かれたシェルランプが室内の一部を明るくする。たった今目覚めた様子の夏木朋子がベッドから上半身を起こして首を傾げた。
「……愁? こんな時間に来るなんて珍しい……」
愁は獲物に悲鳴を上げる時間も与えない。サイレンサーを付けた銃から発射された無慈悲な弾丸が朋子の額から脳を貫いた。
夫が殺された事実も愁に殺される動機も知らないまま夏木朋子は地獄に堕ちる。そのまま永遠に、似た者同士の夫婦で地獄を這いつくばっていればいい。
寝室の窓の下は底知れない闇。二階から見下ろす暗い庭で葉の落ちたサルスベリと目が合った。
『これで満足か? ……母さん』
これは嘘でもない、冗談でもない。
木崎愁の本当の話。
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