4-12

 人の温もりがいない部屋は寒々しい。もぬけの殻となった伶の部屋に木崎愁は立ち尽くした。

愁が帰宅した時にはすでに自宅に伶の姿はなく、データが初期化された伶のパソコンが持ち主の覚悟を伝えてくれる。


伶のスマートフォンには何度電話をかけても繋がらない。トークアプリの通話からかけても、携帯電話番号から呼び出しても、どちらも伶は応答しなかった。


「愁さん……?」

『起きたか。体調どうだ?』

「まだちょっとだるくて、眠い……」


 開け放たれた扉の前に舞が立っていた。たった今起きたらしい舞は、寝起きの目をこすりながら兄の部屋を見回した。


「お兄ちゃんは……?」


愁はすぐには答えられなかった。舞の心身が不安定な今の状態で伶が舞を置いて夜間に外出をした理由を、舞にどう説明すればいいか適切な言葉が見つからない。


『キッチンにビーフシチューとパンがある。舞の夕飯の用意をして出ていくところが伶らしいな』

「お兄ちゃん……どこ行ったの?」

『わからない。スマホに電話しても出ないんだ』


 室内をざっと調べたが、伶がエイジェントの仕事で使用する黒の革手袋が不在だった。それだけでこの嫌な胸騒ぎの半分は的中していると考えていい。


『伶を捜しに行ってくる』

「舞も行くっ!」

『ダメだ。舞は家にいなさい。絶対に外に出るなよ』


伶の行き先には心当たりがある。まず最初に伶が向かう場所はあそこだろう。

伶が家を出て愁が帰宅するまでにどれだけのタイムラグがあった?


その間に愁が想像する最悪な事態が引き起こされていたとすれば……。


「やだぁ。行かないでぇ……。舞を、舞を、ひとりにしないで……」


 廊下を急ぎ足で歩く愁の背中に弱々しくて柔らかな感触が触れた。舞に後ろから抱きつかれた愁は、背中に顔を埋めて泣きすがる妹を振りほどけない。


心細い夜にひとりになりたくない気持ちはわかる。外に出れば周りは敵だらけ、SNSでも中傷の刃を向けられた舞の拠り所は伶と愁のみ。


『俺と伶はどんなことがあっても舞の味方だ。それは変わらない。舞が何をしていても俺は舞を嫌いにならない。兄として妹のお前が大切なんだ』


 腰に回る舞の両手にそっと触れる。震える彼女の両手を解きほぐし、身体を反転させた愁は舞を抱き締めた。


『伶も同じだ。俺よりずっと、あいつはお前を一番大事に思ってる』


舞には家族が伶と愁しかいない。それは伶も同じだ。

伶にも家族と呼べる存在は舞と愁しかいない。愁も、伶と舞だけが家族だった。


『だから何があっても舞だけは伶の味方でいてやってくれ。伶がそうしてくれているように』

「……愁さんとお兄ちゃんは舞にナイショで何をしているの? ずっと、聞いちゃいけないことだと思ってたから聞けなかった。愁さんもお兄ちゃんも舞に秘密にしてることがあるんだよね? 会社のこと?」


 愁と伶の裏の仕事に舞は薄々気付いていたのだろう。二人が何をしているかまではわからなくとも、同じ家で何年も共に暮らしていれば上手く隠していても秘密の欠片は溢れ落ちてしまう。


『心配するな。舞も伶も、俺が守る。とにかくお前は外に出るなよ。せっかく伶が作ってくれたビーフシチューを無駄にするな。それを食べて風呂に入って、今夜は寝ていなさい。わかったな?』

「……うん。いってらっしゃい」


 多分これが舞との最後の抱擁だ。きっと伶も、今の愁と同じ覚悟を決めて家を出ている。

美夜に送る抱擁とは種類が違う愛しさで愁は妹を包み込んだ。


 夏木十蔵の愛人に娘が産まれたと聞かされた16年前の12月。父の節操のなさに呆れていた愁は異母妹いもうとの誕生を素直に喜べずにいた。


けれど折に触れて垣間見た赤子の舞は腐った大人達の愛憎劇も知らずに愛らしく微笑み、ささくれだった愁の心を癒してくれた。


 伶と愁にとって舞は天使だ。世間の人々が舞を悪魔だと罵り後ろ指を指しても、伶と愁は舞を心から愛している。

これは愛の決別。伶も舞もどちらも守ると決めた愁が下した結論は、たったひとつ。


 決意と覚悟と贖罪と祈り。様々な感情を背負って自宅を出た愁が向かった先は彼が数十分前まで滞在していた虎ノ門四丁目。


再びこの地に姿を見せた愁を夏木コーポレーションの巨大なビルが眺めている。今は用はないと言いたげにオフィスビルを無視した愁の車が隣の高層マンションの地下に飲み込まれた。


地下駐車場の指定の場所に車を置き、彼は地下から最上階の夏木邸に急いだ。夏木邸への侵入をはばむすべてのセキュリティのロックをカードキーで解除して豪奢ごうしゃな玄関に飛び込む。


 オーディオから流れるオーケストラは夏木が愛聴あいちょうするモーツァルトのレクイエム。

ソファーの下に着流しの裾が見えた。倒れた夏木十蔵を見つけても平常心を保っていられたのは、予想していた最悪のシナリオと同じ筋書きだったから。


 触れた父の身体は温かい。意識を失ってから10分も経っていないように思う。


『……会長、会長』


愁は夏木の身体を軽く揺さぶり、耳元で呼び掛けた。小さく呻いた夏木はまだ生きていた。

閉じた瞼が薄く開くと同時に激しく咳き込む夏木十蔵の首もとにはロープの食い込みが赤い筋となって残っている。


『伶がやったんですね』

『……ああ』


 咳き込む夏木を支えてソファーに寝かせた。ワインボトルの隣に寄り添う水差しの水をグラスに移し、ひとまず夏木に水を飲ませる。


最後に伶は躊躇したのだろう。意識的か無意識かは定かでないが、一瞬の躊躇がロープの絞めつけを甘くした。


『伶を見つけて始末しろ』

『三途の川の手前まで行って馬鹿になりましたね。伶が消えれば警察は真っ先に俺と会長に嫌疑を向ける。この隠し部屋も調べられたらまずいですよね』


 アコーディオンカーテンで仕切られたリビングの向こう側には銃の保管部屋がある。愁は指紋認証と虹彩こうさい認証を通り、パスワードを打ち込んで保管部屋の扉を開けた。


『この辺で諦めたらどうです? どう足掻いてもあなたはカオスのキングにはなれない』

『口を慎め。お前も伶も……誰に向けて物を言っている』

『父親に向けてです』


保管部屋に入室した彼は淡々と銃に弾を装填する。

愛用のワルサーPPKの装弾数は薬室の弾を入れて計八発。マガジンには七発分の弾が装填できるが、愁がマガジンに入れた弾は五つだった。


貴嶋佑聖キングが何故、俺をジョーカーと名付けたのか、やっとその意図がわかった気がします』


 アコーディオンカーテンの内側で愁は慣れた手つきで銃の遊底ゆうていをスライドさせ、安全装置セイフティを解除した。


夏木はソファーに仰向けになって寝ていた。生死の境を彷徨ったばかりでは身体も自由に動けまい。

無防備な獲物は自分の命の本当の終わりに気が付かない。哀れで醜い、裸の王様。


『いつか俺がする未来を、キングは見通していたのかもしれませんね』


 夏木十蔵の頭部めがけて愁は引き金を二度引いた。夏木に撃ち込んだ弾数は愁の恨みと伶の恨みの二発分。

レクイエムが死者を前にして虚しく響く。夏木十蔵には偉人のレクイエムを捧げる価値もない。


 殺した父親の遺体を彼は無言で見下ろした。頭から血を噴き出す父を見ても何も感じない。

ここにあるのは虚無と解放。こんなものか、とひとりごちして愁は夏木十蔵の亡骸に背を向けた。

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