4-11

 必要な物を詰め込んだショルダーバッグを肩にかけ、伶は足音を立てずに玄関に向かった。


 愁はまだ帰らない。取引先と世間への信用を失い、窮地に陥った夏木コーポレーションでは夏木会長も徳田社長も、面倒な根回しや計略はすべて愁頼み。愁がいなければ会社はとっくに崩壊している。

愁が働き者のサラリーマンを強いられた現状は伶にはかえって好都合だ。


『いってくるよ、舞。……ひとりにしてごめんね』


自室で眠る妹に静かに告げて伶は赤坂の家を去った。

冬の闇に身体を溶け込ませて彼は歩く。今のところ周囲に警察の気配は感じない。


 徒歩で辿り着いた場所は虎ノ門四丁目。夏木コーポレーション本社ビルの隣には夏木十蔵が住居を構える高層マンション、グロリアスタワー虎ノ門が仁王立ちしている。


 夏木邸の合鍵として渡されているカードキーで伶はまずオートロックを解除する。マンションのコンシェルジュは交代制の24時間勤務。夜勤担当のコンシェルジュが伶に深々と頭を下げた。


コンシェルジュに笑顔で挨拶を返してフロントの前を通り過ぎ、彼はエレベーターホールに繋がる二つ目のセキュリティもカードキーで解除した。


 スカイロビーで乗り換えた二つ目のエレベーターは最上階の四十一階まで一気に上昇する。地上から天へ、その距離を高速で埋める密室の箱の中で伶は黒の革手袋を装着した。

コンシェルジュにもマンションの防犯カメラにも伶の姿は捕捉された。もう後戻りはできない。


 エレベーターホールと住居空間を隔てる三つ目の扉のセキュリティも難なく突破して伶は夏木邸に侵入した。コートのポケットに両手を忍ばせ、彼は玄関から伸びる長い廊下の突き当たりで立ち止まる。


夜景が一望できる大きな窓のついたリビングでは着流し姿の夏木十蔵が晩酌をたのしんでいた。

今夜の相棒は珍しくワインだ。大理石のテーブルにはワインボトルとグラス、カッティングボードの上にはスライスされたチーズとその横に小型のチーズナイフが添えてある。


 予告なく現れた伶に夏木は怪訝に眉を潜めた。


『なんだ、伶。今夜は呼んでないぞ』

『俺が会長に用があるんですよ』


 室内は大音量のオーケストラが流れていた。聴き覚えのある旋律と合唱はモーツァルトのレクイエム、怒りの日。こんな夜にはおあつらえ向きの選曲だ。


『会長が一度も見舞いにも来てくれないと舞が気にしていました。父親なら娘を気遣うべきではないでしょうか?』

『お前もわかるだろう。今はそれどころじゃない』

『それどころじゃないなら何故、悠長に酒なんか飲んでいるんです? 舞の見舞いにも来ない、厄介な後始末は愁さんに丸投げ。それでよく偉そうに玉座に座っていられますよね。恥ずかしい大人だ』


ソファーでふんぞり返る夏木に背を向けて伶は東京の夜景を映す暗い窓辺に佇んだ。流れ続けるレクイエムの旋律に夏木十蔵の怒りが上乗せされる。


『伶。今夜は少し言葉が過ぎるな』

『申し訳ありません。話は変わりますが会長は舞を可愛いと思っていますか? 愛しいと感じていますか?』

『舞の容姿は紫音に生き写しだ。可愛がらないわけがないだろう』

『……今の答えで確信しました。会長にとって舞は母さんの身代わりの人形でしかないのですね』


 レクイエムは〈怒りの日〉から〈奇しきラッパの響き〉に切り替わる。

夜景の窓辺を離れた伶は、ショルダーバッグから取り出した麻なわのロープの両端をそれぞれ両手に巻き付けた。伶の行動から彼の真意を察した夏木は薄ら笑いの口元にまた酒を流す。


『私を見くびるな。お前なんぞに簡単に殺されるほどいぼれてはいない』

『こっちは本気です』

『お前を明智の家から解放してやった恩を忘れたか?』

『恩? ふざけないでください。あなたが俺と舞を引き取ったのはただの自己満足だ。俺の父親が邪魔になって愁さんに殺させ、母に生き写しの舞を都合のいい人形にしたかっただけでしょう。俺のことも跡取りにちょうどいい人形としか思っていない』


 テーブルのチーズナイフを夏木が取るより早く、伶は酔いつぶれた老体を蹴り飛ばした。大言壮語を口にしても還暦を過ぎた身体とアルコールの酔いが相まって夏木の身体は無抵抗にソファーの下に転がり落ちる。


『俺がどうして、エイジェントの殺害方法に絞殺を選んだかわかりますか?』


 うつ伏せの姿勢で床に這いつくばった哀れな養父へ、伶は容赦なく制裁の蛇を差し向けた。シワが刻まれた太い首もとに牙を剥いた白蛇がしゅるりと絡み付き、もがき苦しむ夏木十蔵の命を弄ぶ。


『ロープに吊られて母さんが揺れていたんだ。今でもはっきり思い出せるほど、首を吊った母さんの姿は俺には衝撃的な光景だった。母さんは会長を愛したかもしれない。でも会長の存在が母さんを苦しめた。あんたさえ母さんと関わらなければ俺には妹がいなかっただろう。こんな最低な父親の下に生まれるしかなかった舞と愁さんがあまりにも不憫ふびんだ』


夏木十蔵と夏木伶に捧げるレクイエム。玉座から引きずり下ろされた裸の王様を見下ろす彼の瞳は、怒りの炎で燃えていた。


『あんたに舞と愁さんへの愛情がひと欠片でもあれば、俺もあんたへの殺意は生まれなかった。俺は別にいいよ、あんたの息子じゃないからな。だけどあんたと血が繋がってる舞と愁さんの気持ちを一度でも考えたことがあるのか?』


 静謐せいひつの旋律を滑るソプラノが王様の代わりに悲鳴を上げる。首に巻き付く白蛇が命の期限のカウントダウンを刻み始めた。


『あんたは自分しか愛せない人間だ。母さんを愛する資格も母さんに愛される資格も、舞と愁さんの父親を名乗る資格もない』


 そうして審判者の手で裁かれた裸の王は床に伏したまま動かなくなった。王の首から離れた白蛇が審判者の手元で震えている。

震える白蛇を握りしめる彼の黒色の手も震えていた。


 白蛇に巻き付かれて揺れる母の残像のフラッシュバック。宙にゆらゆらゆれる母が纏う白いワンピースは、彼女のお気に入りの洋服だった。


 頬を流れた雫は15年前の記憶の涙?

それとも現在の夏木伶が溢した涙?

ゆらゆらゆれる白い蛇。

ゆらゆらゆれる白いワンピース。

ぽろぽろこぼれた過去と現在いま


 戻れない真っ黒な深淵へ。

こちら側はたのしいよ。

こちら側は正しいよ。

深淵で待つ真っ白な大蛇がこっちへおいでと手招きをして、微笑んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る