3-21
九条が美夜に一瞥をくれた。彼の背後には涙で濡らした顔を伏せた雪枝がいる。
目の表情だけで彼は何かを伝えてきた。読み取れる感情は雪枝を侮辱する知佳への静かな怒りだ。
九条の意図を察した美夜は姿勢を低くしたまま彼に背を向ける。
「父親が残した借金地獄で金もない、綺麗な顔もない、親の人格は最悪。環境に恵まれない側として生まれてきた私の気持ちは誰にもわからない。美人で頭も良さそうなあんたにもわからないでしょうね」
「……そうね。わかりたくもない。それで事件を起こして世の中に仕返しをしたつもり? 無関係な人に八つ当たりしてもあなたのその顔は退屈そうね」
知佳の話相手をしながら彼女は銃を持つ片手を後ろに回す。インカム越しに真紀の声で囁かれるカウントダウンに呼応して先ほどから空を騒がすプロペラの音がだんだん大きくなる。
5、4、3、2、1……。頭上を震わせるヘリコプターの音に知佳は左右を見回した。
「この音……ヘリ?」
「シンデレラになれなかったいじわるな姉を迎えに来たカボチャの馬車よ」
「はぁ? 何言ってるの?」
「窓の外を見てみなさい」
言われるまま知佳がカーテンを開けた。西に傾き始めた太陽の陽射しが教室に差し込むとグレーの床に一筋の光の道が現れる。
ヘリの登場に気をとられた知佳の視線がこちらを逸れた今が最大のチャンス。知佳が空けた窓から流れる風がカーテンを大きく揺らした。
最後のトリガーを引いたのは九条だ。美夜の銃を使用して九条が解き放った一撃は無防備な知佳の右肩に命中し、飛び散った鮮血が乳白色のカーテンを赤く染めた。
悲鳴を上げながら知佳が膝から崩れ落ちる。撃たれた右肩は力を失い、右手を滑り落ちた銃は美夜の手で回収された。
上空を騒がせる音の正体は警視庁特殊急襲部隊、通称SATのヘリだ。
A棟の屋上プールの屋根が開閉式と聞いた時点で美夜はSATのヘリ出動を上野一課長に進言した。ヘリからロープをつたってプールサイドに降りれば、五階まで容易く辿り着ける。
だがこの案には致命的な欠点がある。
ヘリの到着は早すぎても遅すぎてもいけない。早すぎた場合は警察のヘリだと気づいた犯人グループが逆上して人質を射殺する恐れがある。
遅すぎた場合は爆弾の解体に間に合わない。
美夜達とSITが、ある程度現場を制圧していること、それがヘリ出動の条件だ。
教室に
4時間近く椅子に拘束されていた舞は担架に乗せられ一足先に教室から運ばれる。舞の足元に鎮座していた爆弾は爆発物処理班の手で解体、15時49分に爆弾のタイマーは停止した。
*
人工芝のグラウンドをヘリポート代わりにしたSATのヘリが
コートのポケットに両手を突っ込み、彼女はグラウンドに面した小道を折り返した。
滝本航大と格闘戦を繰り広げた中庭は一部が規制線のテープで囲われている。黄色のテープで囲われた内側は梶浦が美夜を狙撃した際に銃弾が直撃した地面があった。
規制線の外側のベンチに木崎愁が座っている。
スマホで通話中の彼は中庭の入り口で立ち止まる美夜を視界に捉えると、こっちへ来いと自分の隣を指で指し示した。
近付くにつれて鮮明に聞こえる愁の声は疲れきっている。彼の口調からして通話相手はおそらく夏木コーポレーションの幹部だ。
話をするのも面倒らしく、愁は通話相手の話をけだるげに聞き流していた。美夜が愁の隣に着席して数分後、ようやく彼は耳に当てたスマートフォンから解放された。
「舞ちゃんについて行かなくてよかったの?」
病院に搬送された舞は軽度の脱水症状と診断が下った。こちらに呼び寄せた舞の兄、夏木伶が到着して救急車に乗り込む直前まで愁は舞の側を離れなかった。
『舞は伶に任せてある。俺はこれから会社戻って面倒な後始末だ』
「それにしては電話を切った後ものんびりしてるのね」
『早く戻れって急かされると余計に戻りたくなくなる。いい歳の大人が自分達がやらかした不始末の隠蔽しか考えてない。知恵を貸すのも馬鹿馬鹿しいだろ?』
空を仰ぐ愁につられて美夜も顔を上げる。茜色に燃えた太陽が作り出す夕焼けの世界がどこまでも空のキャンバスに広がっていた。
「伶くんがここに到着した時、凄い形相で睨まれたんだ。私って伶くんに嫌われてる?」
『気にするな。伶の一番は舞だ。舞が俺の妹だとしても、舞の初恋が叶わなかった原因はそれだけじゃない。伶は舞を苦しめるすべての因子が憎いんだよ』
「それって遠回しに舞ちゃんの初恋が叶わなかった原因が私にあるって言ってない?」
『距離にすれば地球三周半くらいの遠回しには、そう言ってるかも』
地球三周半の距離ではなく、たった数センチメートルの遠回しでしかないと抗議したい気持ちを彼女は抑えた。
自惚れの
『でも舞は美夜に感謝してた。助けてくれてありがとうとお前に伝えてくれって。俺も妹を守ってくれた女刑事に感謝してる』
「私は警察官の職務を果たしたまで。人質を全員無傷で救出する任務を遂行しただけよ」
舞と雪枝、多感な少女達の心は様々な要因で傷付き、揺さぶられ、時に鋭い棘を覗かせる。
舞は恋敵の美夜には感謝を示せても雪枝には謝罪をしていない。
あれだけの仕打ちの直後では、いじめの加害者である舞も雪枝に頭は下げられないだろう。雪枝も舞に詫びの言葉を述べていない。
いじめられた側はどんな仕返しをしても同情を買って許される、いじめた側はどんなに酷い仕返しを受けても自業自得。
加害者にはどれだけ罵詈雑言を浴びせても構わない、SNSによる誹謗中傷でいじめの加害者側が自殺しても自業自得、そんな世間の風潮が美夜は恐ろしかった。
立ち上がった愁のコートの裾が風にはためく。冬の夜の入り口では北風の子どもが我が物顔で暴れていた。
こうして人間が何もしないでいる間にも太陽の位置は低くなり、燃える空の端が闇色に呑み込まれる。暖色と寒色を繋げる薄紅のベールが空を優しく包んでいた。
「次に会う時は事件の聴取だからね。逃げないでよ」
『楽しみにしてる』
影法師を引き連れてのっぽな背中が小さくなる。
本音はあと少し、彼の隣で彼の横顔を見つめていたかった。あと少し近付けば手が触れる場所にいた彼に触れたかった。
一度も振り返らない背中を寂しく感じた女心は美夜には制御できない厄介な代物。
沈む太陽がその身を赤く腫らして泣いていた。彼女も涙を流さず、泣いていた。
Act3.END
→Act4.
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