Act4.風花悲恋

4-1

12月5日(Wed)


 朝の空気に浮かんだ吐息は白く儚い。桜田通りを歩く神田美夜の横を通り過ぎる霞が関のサラリーマンもこぞって冬の青空を見上げていた。


 警察官とは虚しい職業だ。命の危険と隣り合わせのこの仕事には悪意の存在が必要不可欠。

この世のダークサイドと対峙するたびに美夜はつくづく、人間と呼ばれる醜い生き物に嫌気が差す。


 どうして正義そちら側にいるんだと、ある犯罪者は美夜を問い詰めた。

その犯罪者の名を昨日は散々耳にしたが、だからだろう。昨日からずっと、考えてしまう。

どうして10年前の“松本美夜”は刑事になろうと思ったのか──。


世の中をくしたいだとか悪者はひとり残らずこの手で捕まえたいだとか、暑苦しい相棒が持ち合わせている正義の志が美夜には欠けている。


 相変わらずの誰が為の罪滅ぼしは、いつになれば刑期を終える?

誰に対する贖罪しょくざい? 誰に対する罪悪感?


 今でも佐倉佳苗の死に悲しみの感情は生まれない。明智が殺さなければ、いつか美夜が佳苗を殺していた。


(佳苗に悪いとも思ってないくせに、何が贖罪? ……結局私は10年間、自分が許せないだけなんだ)


生と死の狭間にいた幼なじみに慈悲の手を差し伸べなかった10年前の松本美夜を、10年後も神田美夜は許せないでいる。


(いつまで私は自分に謝り続けているの?)


 人を殺したくなった自分を。いつか人を殺してしまうと悟った自分を。

彼女はまだゆるせなかった。


        *


 見慣れた捜査一課のフロアの見慣れた顔の隣のデスクが美夜の席。デスクに伏せた大きな背中がもぞもぞと動いて横に立つ美夜を寝ぼけ眼で見上げた。


「おはよう。寝てた?」

『5分だけな。身体平気?』

「全身筋肉痛。そっちは?」

『同じく全身筋肉痛の湿布だらけだ。昨日暴れ過ぎた』


 九条のデスクに散乱する栄養ドリンクの瓶と湿布の箱、朝食用のコンビニのおにぎりとサンドイッチは珍しく手付かずだ。

昨日は美夜も九条も通常の犯人逮捕の倍の体力を消耗した。酷使した身体は翌日の動きが鈍く、頭から足先まで全身が疲労している。


『昨日バタバタしてて、ちゃんと言えてなかった。宮島知佳の狙撃を俺に任せてくれてありがとな』

「あの時の九条くんが冷静そうだったから銃を渡しただけ。九条くんが刑事の本分を忘れて雪枝ちゃんの仕返しを知佳にしようとしていたら、渡してないよ」


 SATのヘリが到着する寸前、知佳の銃口は雪枝を庇う九条と美夜に向いていた。あの状況下で九条が自身の腋の下の銃を抜く時間はなく、少しでも妙な素振りをすれば知佳がこちらに発砲していただろう。


『本音は少しヤバかった。でもお前の喜怒哀楽のないぜんっぜん動かない表情筋見てると不思議と頭が冷えてきた』

「九条くんは喜怒哀楽が分かりやすいのよ。銃を寄越せってアイコンタクトしてきた時のポーカーフェイスはまぁまぁ頑張った方じゃない?」

『ほっとけ。俺は誰かさんみたいに鉄仮面じゃねぇんだ』


憎まれ口を叩き合ってもまだ仕事をやる気になれない。二人して嫌々起動させたパソコン画面は、文字を打ち込まれずに真っ白だ。


『学校潜入の報告書、徹夜しても半分も書けてねぇよ。状況が込み合って説明が難しい』

「カメラに全部記録されてるんだからありのままを書くしかないよ」

『木崎が場馴れしてたってちゃんと書けるのか? 巻田の死体を見ても普通に突っ立ってたアイツの行動はただの民間人と言い張るには無理がある』

「あの人は自分の行動がカメラに記録されると承知で一緒に乗り込んでる。今さら死体や犯人に怯えて私達の後ろに隠れていました、なんて嘘は通じない」


 空手有段者の滝本と互角に渡り合う格闘技術や冷静な思考と素早い判断力、どの場面を切り取っても警察官の美夜と九条の経験値を愁は上回っていた。


美夜と九条が装着した小型カメラを通じて対策本部でリアルタイムに映像を視聴していた上野一課長達は、愁の一挙一動を見逃さない。ジョーカーと目される愁の嫌疑は一層強まった。


 今朝のテレビのニュース、新聞、SNSや動画配信アプリ、各報道媒体はこぞって夏木コーポレーションの不祥事を騒ぎ立てている。


 昨夜21時頃、夏木コーポレーションの徳田社長が本社ビル前で報道陣の取材に応じた。千葉県館山たてやま市のNATSUKIリゾートシーグラス館山と併設のショッピングモール建設に際して館山市民との間にトラブルがあった事実を社長は認めた。


トラブルの詳細な内容は現在調査中、会長の娘のいじめ問題について社長の自分から言えることはないと言葉を濁して徳田社長は早々に取材を終わらせたが、今朝のニュース番組はどのテレビ局も紅椿学院高校立てこもり事件の一部始終と徳田社長の簡素な質疑応答、夏木十蔵の醜聞を垂れ流していた。


「10時からは河原水穂の聴取ね。長くなりそう」

『水穂は立てこもりと月曜日の切り裂きジャックと紺野萌子の殺害、聴取内容が他の奴らより多いからな』


 河原水穂は弟と共謀した月曜日の切り裂きジャックの犯行も紺野萌子殺害も罪を認めている。


 月曜日の切り裂きジャック事件に関しては弟の勇喜にもいくつか確認事項があるが、勇喜と水穂はトークアプリの通話機能を使って犯行計画のやりとりを交わしていた。


メッセージと違い、通話はトーク画面上には着信や通話時間の履歴が残るだけ。互いが録音でもしない限り、外部には犯行計画が漏れない。

どちらかが先に捕まり、警察にスマートフォンを押収された場合の保険だったと昨夜の聴取で水穂は述べていた。


 水穂の犯行は勇喜にアリバイがある一件目と四件目の事件だ。第一、第四の犯行を水穂が、第二、第三、第五の犯行を勇喜が行っていた。


 最初の被害者の小学一年生の女子児童が犯人を男だと証言したのも女性にしては高めの水穂の身長とショートカットのヘアスタイルで男性と見間違えたためだ。


犯行に使用する際に二人が着用した上下黒のスエットとパーカーの格好は服装による性差の判別は難しい。パーカーのフードを被って顔を隠してしまえば水穂が細身の男性に見えても無理はない。


水穂の身長は170センチ、勇喜の身長は172センチ。血の繋がった姉と弟の二人は容貌も似ており、二人で一人の切り裂きジャックを演じるにはうってつけ。


 月曜日の切り裂きジャックは勇喜と水穂の歪んだ憧れが産み出した怪物だった。彼らの憧れの対象は21世紀の切り裂きジャックと一部の人間に熱狂的に持てはやされた陣内克彦だ。


「ここまで陣内の事件が尾を引いてくるとはね」

『三人の教え子を犯罪者に仕上げた陣内は、今頃何を思ってるんだろうな』

「何も思ってないよ。あの男にとってはすべてが自分の殺人衝動を満たす駒。水穂には可哀想だけど、陣内は人への愛情を欠片も持たない男だと思う」


 紺野萌子と河原水穂の間には二人の男を巡る揉め事が起きていた。

勇喜の事件直後に匿名チャットアプリ内で萌子と会話をしていた水穂は、萌子から同級生が逮捕された話を聞かされる。


それをきっかけに互いの素性を知るに至った二人だが、以前から聞き及んでいた水穂の片想いの相手が陣内だと知った萌子の無意識のマウント発言が水穂の殺人衝動の導火線に火をつけた。


 おまけに萌子は勇喜との身体の関係までほのめかしたらしい。長年苦しい片想いをしていた陣内と心のり所の弟を萌子にられたと怒り狂った水穂は自宅近くの南千住の公園に萌子を呼び出し、嫉妬の刃で萌子の身体を切り裂いた。

これが紺野萌子殺害の動機だ。


 しかし萌子にも陣内や勇喜への愛情があったとは思えない。

陣内と萌子の教師と生徒を越えた共犯関係は単なる似た者同士の同調でしかない。彼らは自分しか愛せない人間だった。

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