3-10
潜入の打ち合わせを終えて図書室の二つ隣の図工室に移動した美夜は部屋のカーテンをすべて締め切った。
図工室の木のテーブルには潜入時に装着する小型カメラ、インカム、防弾ベストと銃を収めるホルスター、鍵がかかったアタッシュケースが揃って置かれている。アタッシュケースの中身はSIT側が用意した拳銃だ。
九条は警察がこちらに呼んだ雪枝の両親と別室で面会中。立てこもりの犯人グループに娘が協力している事実を受け止めきれない雪枝の両親は蒼白の表情だった。
美夜は廊下に誰もいないことを確認し、室内の愁に向き直る。
「あなたらしくなかったのよね」
『いきなり何だよ』
「巻田の解雇の件を話してる時のあなたは珍しく歯切れが悪かった。盗撮していた他にも巻田には何かあるんじゃない?」
『なんでそう思う?』
「顔に書いてある」
テーブルの端に腰かけていた愁はやれやれと肩をすくめて自分の顎先に触れた。
『お前、俺の思考を読み取れる能力でも持ってるわけ?』
「そんな能力があればいいよね。残念ながら他の思考は読み取れない。あなたがどういう気持ちで私の前に現れたのかも、わからないもの」
愁の視線を左隣に感じながら美夜はスーツのジャケットを脱いだ。ここから先、ジャケットと耳に取り付けるカメラやインカムを通して愁との会話は本部で待機する上野一課長や刑事達に筒抜けの状態となり、迂闊な発言はできなくなる。
組織犯罪対策部の百瀬警部はこの潜入を呼び水に利用して愁がジョーカーたる証拠を掴もうと躍起になっていた。
愁は警察側の目論見をすべて見抜いている。彼は自分の裏の顔が露見するデメリットよりも舞の救出を優先させた。
百瀬警部には悪いが今はジョーカー問題よりも人質の救出と犯人確保が先決。美夜の口から愁がジョーカーだと指し示す発言をするわけにはいかない。
愁とオフレコの話ができるのは二人きりの今しかなかった。
『巻田は盗撮しかしてねぇよ。けど、ホワイトボードに木羽会の組員の名前が書いてあったよな。巻田は盗撮した女子社員の動画を木羽会に横流ししていた』
「木羽会と繋がっていたのは巻田だったのね」
腑に落ちなかった木羽会の生き残りと犯人グループが一本の糸で繋がった。学校立てこもり計画に木羽会を引き込んだのは巻田だろう。
犯人グループが所持する銃と爆弾も裏社会に浸る人間であれば調達は可能だ。
『木羽会は巻田が撮ってきた映像使って盗撮ポルノDVDを作ってネットで販売していた。お前には理解できねぇだろうが、今はプロのAVよりも素人の盗撮ポルノが売れるんだよ。しかもそのDVDの一部のケースには覚醒剤を仕込んでいた。ポルノとクスリで稼ぐヤクザのありがちな話』
夏木コーポレーションの女子社員の盗撮映像と覚醒剤で金儲けをしていた木羽会……ここでまた、二つの事象が線で繋がる。
「夏に木羽会を一夜で壊滅させた人間ってやっぱり……」
『俺だけど?』
シャツの上から防弾ベストを装着した美夜の身体が愁の両腕に包まれる。久方ぶりに全身に感じた愁の体温に、速くなる鼓動と熱くなる頬。
『俺がどんな気持ちでお前の前に現れたか知りたい?』
「知りたくない」
本当の気持ちは口に出した言葉とは裏腹。耳元に触れた愁の吐息が甘く妖艶に美夜を惑わせた。
『会いたかった』
「……だから今、言わないでよ」
ずるい男は平気で女の心を壊して
二度と会わないと誓ったくせに何食わぬ顔で美夜の前に現れた男は、特別に甘い声と甘い瞳でいとも容易く彼女の心を捕らえてしまう。
溢れる気持ちは叶えてはいけない恋心。
これ以上、触れ合ってはいけない。
これ以上、好きになってはいけない。
潤んだ美夜の瞳の端に愁の唇が触れた。軽く添えられた目元のキスが美夜をただの女に変えていく。
迫る愁に追い込まれた美夜の身体がテーブルの角にぶつかって彼女は逃げ道を失った。子ども達が創造性豊かな作品を生み出す図工室のテーブルに乗り上げた美夜を、彼は容赦なく捕食する。
「愁っ、待って……っ!」
木崎愁は待てと言われて大人しく待つ男ではない。
耳から首筋にかけて触れた愁の唇の感覚が身体の奥を熱く燃やす。愁の手でシャツのボタンが二つ外され、鎖骨の下に新たに刻まれたキスマーク。
彼の舌先が通過した部分は羞恥で火照り、唇で耳たぶを優しく挟まれた時は、甘美な喘ぎ声と共に吐き出したとろりとした分泌物がショーツの内側を湿らせた。
軽やかなリップ音を響かせて愁は美夜の肌を味わう。そのまま唇に着地しようとする彼から美夜はそっと、真っ赤に染めた顔をそらした。
「ごめんなさい。キスは……できない。舞ちゃんが怖い思いをしてるのに、私達がこんなことしてる場合じゃない。誰が入って来るかもわからないし……」
本当はこのままキスをしたかった。本当はこのまま抱いて欲しかった。
けれど首筋に感じた快楽の刺激も下半身に感じた欲情のとろみも今はなかったことにして、彼女は愁の熱に犯されたがる女の部分を必死に封じる。
忘れてはいけない警察官の責務が美夜の最後のストッパーだ。
『そうだな。俺も今は頭ん中の半分以上が舞で占めてる。立てこもってる奴ら全員、俺が殺してもいいくらいだ。お前がいなかったら、たぶん皆殺しにしてる』
ポーカーフェイスを剥がさない男が美夜にだけ見せた弱々しい苦笑いが女と刑事の狭間を
甘えていたのは愁の方だ。ぬくもりを欲しがったのも愁の方。美夜の肌を感じる時間は愁の心を整える時間でもあった。
『俺が殺す前につまんねぇ連中に撃たれて死ぬなよ?』
「そっちこそ。自分から大見得切って乗り込んで死ぬのはカッコ悪いからね。だから早く防弾ベスト着て」
いつもの憎らしい顔に戻った愁に防弾ベストを押し付けた。こんなものは必要ないと突っ返す愁の身体に無理やり防弾ベストを装着させ、美夜も自分の準備に入った。
恋の甘い余韻が
「九条くん出動まで時間ないよ。支度して」
『……ああ』
テーブルに両肘をつき、伏せた顔を上げずに九条は答える。美夜が用意を急かしても彼は椅子に座ったまま動かない。
『一番顔を見たくない奴がここにいるんだけど。なんで民間人も一緒なんだ? どう考えてもあんたは足手まといだろ』
猫背に丸めた背中が揺れて顔を上げた九条が愁を睨みながら吐き捨てた言葉は、彼らしくない毒だった。凍えた空気に渦巻く敵意が九条と愁の間を流れている。
珍しく甘えん坊な愁が元に戻った途端に、珍しく尖った九条が現れた。どいつもこいつも困った男達だ。
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