3-2

 今朝の愁は比較的スローペースだ。出社時間のかなり前に家を出る日もあれば、重役出勤さながらの遅い朝もある。今日は後者だった。


『警察の動きはどうですか?』

『サツは水面下で動くものだ。そのうち逮捕状でも持って俺を逮捕しに来るんじゃねぇの?』


新聞を広げて悠々と伶が淹れた二杯目のコーヒーと煙草を楽しむ愁からは焦燥感を感じない。コーヒーの匂いと煙草の匂いが混ざった空気は、この家定番の匂いだ。


『そのわりにずいぶん余裕ですね』

『逮捕状は俺がジョーカーだと示す証拠が掴めればの話。俺はそこまでヘマやらかしてきてねぇよ』


 警察が動き始めたと聞いたのは先月の中頃。夏木コーポレーションと子会社のエバーラスティングに刑事が訪問したらしいが、警察は愁にも伶にも逮捕状を出せずにいる。

当然だ。愁がジョーカーである証拠も伶がエイジェントである証拠も簡単には出てこない。


『警戒するのはサツだけじゃない。夏にぶっ潰した木羽きば会の残党が夏木コーポレーションの周りをうろちょろしてるって情報が昨日入った。始末をつける前に奴らが仕掛けてくるかもしれない』

『もし仕掛けてきたら、舞が一番危ないんじゃ……』

『心配するな。今朝は日浦に舞の警護をさせてる。帰りは俺が迎えにいくし、他の行き帰りもしばらくは日浦や部下に警護させる』


それで唐突の迎えの話となったわけだ。帰りの車内でもまた気まずい雰囲気にならなければいいが。


『お前、こうなってもまだエイジェントを辞める気にはならないのか?』

『らしくないこと言わないでください』

『殺しを続けても夏木の手駒にされるだけだ。今のうちに手を引け』

『手駒は承知です。だけどエイジェントは俺の居場所なんですよ。存在理由なんです』


 伶は夏木十蔵をはなから信用してない。夏木十蔵も夏木朋子も、上部だけの胡散臭い大人だ。

夏木十蔵を利用しているのはこちらも同じ。伶にとっては夏木十蔵の権力も財力も、舞を守る城塞に過ぎない。


伶が唯一信じられた大人は木崎愁だけだった。愁の言葉にはいつでも嘘がない。


『あの時、小学生だった俺は愁さんに憧れた。殺してくれてありがとう……俺もそう言われる立場になりたい。会長からエイジェント計画を聞かされた時、迷わずやろうと決めたのも愁さんのようになりたかったからです』

『俺みたいになれば破滅するぞ』

『大丈夫ですよ。愁さんに憧れているのは本当ですが俺は愁さんとは違う』


 愁の言葉に嘘が混ざり始めたのは彼の背後に神田美夜の影がちらつき始めた頃。本心は見えなくても言葉には嘘がなかった愁は、美夜と伶を会わせた花火の夜に初めて伶に嘘をついた。


『俺が大切なのは生涯、舞だけです。俺はその点で決定的に愁さんと違う。舞以外に大切な女は作らない、舞を悲しませない。舞を守ることが母さんとの約束なので』

『……いちいち報告するまでもないが、女とは別れた』

『それですべてが丸く収まると思いますか? 舞の前で結婚宣言までしておいて。しかも相手は刑事で愁さんが裏で何をしているかも知っている』


 愁と美夜の膠着状態も伶を苛つかせる。殺すなら殺せばいい、逮捕するならすればいい。たったそれだけのことを躊躇する愁と美夜が伶には理解できなかった。


『愁さんが神田美夜を殺せるとは思えないな』

『お前にもあの女は殺せねぇよ』


 言われた言葉の意味がわからない。数では愁に及ばなくとも伶も殺人の場数はそれなりにこなしている。

刑事でも相手は女だ。それも細身で体重もない。あの程度の体型なら背後から気絶させて絞め殺せばすぐに死ぬ。


 伶の考えなどお見通しとでも言いたげに、愁は冷笑した。咥えた煙草を指に挟んで吐息と共に紫煙を流した殺し屋は冷笑を微笑に変える。


『簡単に殺せるような隙のある女なら俺がとっくに殺してる。あの女をお前がるには10年早い』


 やはり納得はできない。けれどわかることがひとつあった。

愁の心にはまだ神田美夜が居座っている。それだけが愁が伶に示した嘘のない答えだった。

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