1-12
『紺野って陣内先生と仲良かったよな』
突如、勇喜の話に現れた男の名に心臓が跳ね上がる。今年の春まであれほど訪れていた北校舎の生物準備室にはもう彼はいない。
「仲良いって言うか……先生に本を借りたり進路の相談に乗ってもらっていただけ」
『それは教師と生徒の関係だと充分仲良い方だろ。俺も陣内先生の授業マニアックで好きだったんだ』
荒川第一高校の生物教師だった陣内克彦は四人の女を殺害した連続殺人犯だ。
殺された被害者には萌子の継母も含まれている。継母が亡くなったあの事件以降、父と兄は会社も大学も休んでしばらく家で塞ぎ込んでいた。
『陳内先生がいなくなってこの学校はつまらなくなったよな』
「私は元々、学校がつまらないけどね。だけど陣内先生がいなくなってから、もっとつまらなくはなった」
校内で陣内の名を口にすることはタブー視されている。教師達にしてみれば陣内の事件は外部からも内部からも二度と触れられたくない学校の汚点。
陣内に継母を殺された形の萌子にすら教師達は恐々と接していた。
『姉ちゃんもここの卒業生で陣内先生の生徒だった。陣内先生が殺した
「そうなんだ。偶然って怖いね」
何が怖いのか口にした途端にわからなくなった。作り物のお化け屋敷やジェットコースターを大して怖いとも思っていないくせに、人は怖い怖いと口走る。
今のはその心理と同じかもしれない。
萌子の継母が陣内に殺された事実を同じクラスの勇喜は当然知っている。それでも彼は萌子の前で平然と陣内の話を持ち出し、陣内がいなくてつまらないと吐き捨てた。
もしも萌子が継母を好いていて継母を殺した陣内を憎んでいたなら、勇喜を無神経だと
だが継母の殺害は萌子が陣内に依頼した代行殺人だ。萌子と陣内の秘密の共犯関係。
陣内に感謝はしても恨みはしない。陣内のおかげで萌子の家族は何もかも、元通りになれたのだから。
『ここだけの話、姉ちゃんは陣内先生が好きだった。多分今でも先生が好きだと思う』
「その話を私に言うとここだけの話じゃなくなるよ?」
『だから言いふらすような友達が紺野にはいないだろ?』
昼休みの間に二度も友達がいないと言われてしまった。反論もできずに膨れっ面でサンドイッチを貪る萌子を、勇喜が見下ろして笑っている。
言いふらせる友達もいなければ、言いふらすつもりもない。生徒が教師を好きになる話はありふれている。
利用している匿名チャットアプリで萌子が知り合った女性も卒業した母校の教師への片想いを引きずっていると打ち明けてくれた。皆、顔見知りには言えない秘密の恋をしているのだ。
『お前、拗ねてる時に顔がまんまるになるんだな』
「笑いすぎ……っ!」
見上げる萌子と見下ろす勇喜。笑うとできるえくぼが可愛い勇喜と視線を合わせた彼女の心が、
心の奥に生まれたそわそわの感覚は前にも経験がある。今の萌子には確実にわかることがあった。
萌子は陣内が好きだった。今にして思えば、陣内が萌子の初恋だ。
陣内を好きだと言う勇喜の姉への少しの嫉妬と優越感。けれどもうひとつ生まれた、勇喜に対する個人的な感情の狭間で萌子の心は騒がしかった。
少し前まで嫌いだった人。
少し前まで心を占めていた二度と会えない人。
キライとスキの狭間はなに?
スキなヒトとスキなヒトの狭間はなに?
また彼と目が合う。寝そべる勇喜の真っ暗な瞳に吸い込まれた萌子はそこから抜け出せない。
欲しいと思う、独占欲。
良いもの見つけた、アレが欲しい。
欲しい。欲しい。アレが欲しい。
「……そっち行っていい?」
『いいよ』
勇喜の三段下にいた萌子は恐る恐るの一歩を刻む。三段上がって踊り場に到着した彼女が勇喜の隣に腰を降ろした瞬間、彼に片腕を引っ張られた。
そのまま勇喜の胸元に飛び込んだ萌子は彼の体温に身を任せる。冷たい北風が二人の上を通り過ぎるが、勇喜の胸元はとてもあたたかい。
左胸に耳を近付けると彼が生きている音が伝わってきた。抱き締める腕の力は強くなり、頭を撫でられてくすぐったい。
どちらが先に近付いたか不明の接触事故は自然に起きた。萌子ではなく勇喜が緊張していた気がしたのは、萌子はそれが初めてのキスではなかったから。
初恋もファーストキスも処女も継母の殺害依頼をした日に全部、陣内に捧げた。萌子を抱いている最中に陣内は何度もこうして気持ちのいいキスをしてくれた。
あの日の情景をひとつひとつ思い返して萌子は勇喜の唇に陣内を重ねる。陣内がしてくれたキスを真似ても上手くはいかなかったけれど、萌子の行為に勇喜が翻弄される様は手綱を握れて気分が良かった。
秘密の犯罪を心に秘めた少女は少し前まで嫌いだった少年と、恋にも愛にもなりきれない未完成で未熟なキスを交わした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます