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 今朝は寝坊をして弁当が作れなかった。今にも空腹の虫が鳴りそうな気配を抱えて三岡鈴菜が下りのエレベーターに乗り込むと、エレベーター内で同期の丹羽にわ架純かすみと遭遇した。


「あ、すずっ……!」

「お疲れ。やっとお昼だよぉ。寝坊しちゃってお弁当作れなくて朝ごはんもヨーグルトだけでさ……」

「その様子だとまだ知らない?」

「何が?」

「いや、いいや。食堂に着いてから話すよ」


エレベーター内には鈴菜と架純の他に男性社員が二人、女性社員がひとりいる。彼らの耳を気にして話せないような話題なら、多くの社員が集まる食堂でも気軽に話せないと思うのだが……?


 夏木コーポレーションの食堂は三階に位置する。三階に到着したエレベーターは五人の男女を吐き出した後、鈴菜の背後で口を閉じた。


「昨日、赤坂で同期と飲んだ帰りに木崎さんを見かけたんだ。赤坂駅前で女の人を車で迎えに来てた」


食堂に着いてから話すと息巻いていた架純は我慢しきれずに食堂に続く廊下でその話を身振り手振りを交えて語り出した。


「昨日は後輩の女の子と同じチームの男性社員二人の四人で契約が取れた打ち上げで飲んでて、赤坂駅に向かって歩いてたの。そうしたら男二人が急にそわそわし始めて。赤坂駅の前に超絶美人が立っててさ、声かけようか迷ってたみたい。私と後輩がその場にいるのに失礼だよねぇ」


 広々とした食堂で二人分の席を確保してから食券の発券機に向かう。鈴菜はAランチを、架純はハヤシライスを選択していた。


「あんな超絶美女どうせ彼氏待ちだからメンズ達引っ張って駅に入ろうとしていたところに……」


 そこで架純はやけに言葉を溜める。溜め方が通販番組の宣伝みたいで、苦笑いする鈴菜の隣で架純は左右を見回していた。

側にいるのは食堂で働く従業員だが、ランチタイムの忙しさで彼女達の話を盗み聞きする余裕もないだろう。


それでも人の耳を気にして声の音量を調節した架純が再び口を開いた。


「なんと現れたのが、愛車に乗った木崎さんだったから全員がびっくり! わざわざ運転席から降りて、女に助手席の扉開けてあげたの。あのクールを極めた木崎さんがよ? 信じられる? 木崎さんの車、黒のクーペなんだね。車種も色もイメージ通り」


 夜の赤坂に黒のクーペで颯爽と女を迎えに来る木崎愁……架純が目撃した光景を鈴菜は頭に思い浮かべた。


妄想に焦がれる鈴菜の前に大きなコロッケが中央に居座ったAランチのトレーが現れて、一気に現実に引き戻される。


「木崎さんやっぱり彼女いたんだね」

「やけに落ち着いてるね。すずは騒ぐか落ち込むかのどっちかだと思った」

「夏に会長のお嬢さんの舞ちゃんが会社に来たでしょ。その時に舞ちゃんから木崎さんに彼女がいることは聞かされていたの」


 Aランチのトレーを持って器用に人混みをすり抜ける鈴菜の後ろをハヤシライスのトレーを持つ架純が追いかけてくる。


「後輩ちゃんがお喋りな子だから木崎さんの彼女の噂けっこう広まってるけど、当の秘書課は平和っぽい?」

「うちの部署にはそんな噂まったく届いてないよ。秘書課の人達って良くも悪くも上司以外への興味が薄い人が多いからかな。いただきます」


木崎愁の彼女の噂よりも今の鈴菜はこの空腹をどうにかしたかった。熱いコロッケにかぶりつき、ほくほくのじゃがいもの味を幸せそうに堪能する鈴菜を見て架純は拍子抜けしている。


「すず……本当にもういいの? あんなに木崎さんに一途だったのに」

「彼女いるってわかった時から諦めモードだよ。私、前の彼氏に浮気されたじゃない?」

「ああ……あの二股野郎ね。アイツとすずを引き合わせた私もあれには責任感じてる」


 鈴菜が2年前まで交際していた元彼と出会ったのは架純がセッティングした合コンだった。


「浮気を知った時にね、彼女がいる人に平気で迫る女は自分が彼女の立場になって同じことをされたらどう思うか、考えられない人なんだって思ったの。彼女の立場なら彼氏が他の女に告白されたり迫られたりするのは嫌だよね。私は元彼の浮気相手の女と同じレベルに落ちたくない」

「前から思ってたけど、鈴菜はいい子過ぎるよ……」

「綺麗事だってわかってる。自分がされて嫌だと思ったから同じことをしたくないだけ。きっと会うことはないけど、木崎さんの彼女さんを嫌な気持ちにさせたくないの」


二つあるコロッケのひとつを完食して少し空腹が落ち着いた。

添えられた味噌汁は実家の母の味に似ている。ホッとする優しい味だ。


「彼女さん美人って言ってたけど、どんな系統の美人?」

「黒髪色白の超美人。背は平均より少し高めで腰も手足もスラッと細くて、髪はミディアムのストレート。もうちょっと伸ばしてロングヘアになったら日本人形みたいだよ。あれが本物のクールビューティーって言うのねぇ」


 日本人形、クールビューティー、背が高くて細身。木崎愁の好みはやはり可愛い系よりも美人系だろう。

どちらかと言えばタヌキ顔で平均身長、クールビューティーとはお世辞にも言われない鈴菜の外見とはすべてが真逆だ。


「服装は黒のパンツスーツ。でも企業勤めでもなさそうなのよね。エリートのお役人っぽい雰囲気かな。木崎さんが“ミヤ”って呼んでるのが聞こえた」

「ミヤさんかぁ。名前も和風で綺麗だね。どこで知り合ったのかな」

「出会いが気になるよね。車から降りて彼女の名前を呼ぶ木崎さんの声が甘くて、後輩と叫びそうになっちゃった。ナンパしようか迷ってたメンズ達は気落ちしてたなぁ。相手が木崎さんじゃねぇ、かなうわけないもん」


 甘い声で名前を呼ばれるその女性は木崎愁の特別な存在。

心に生まれたかすかな痛みがこの恋の終焉を教えてくれる。憧れからのミーハーな恋心でも鈴菜の愁への気持ちは紛れもなく本物だった。

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