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 気持ちを切り替えて午後の業務に臨んでも、失恋の亀裂はすぐには癒えない。接待の店のピックアップや上司の日程調整、書類作成と、膨大な量の仕事をこなしていると気付けば終業時間がすぐそこまで迫っていた。


『この書類、木崎さんに最終チェックをお願いしてもらえるかな』

「はい。木崎さんは……」


同僚男性から差し出された書類を受け取った鈴菜は秘書課のフロアを見渡した。フロアに木崎愁の姿はない。

愁を捜す鈴菜の視線に気付いた同僚女性が腕時計を確認した。


「この時間なら会長室じゃない?」

「そうですね。会長室いってきます」


 秘書課フロアの一階上には役員にのみ与えられる専用の個室が並んでいる。社長室を通り過ぎて彼女は会長室の扉の前に立った。


 日程表通りなら夏木会長は15時から出掛けている。おそらく部屋には愁ひとり。

会長が不在だとわかっていても会長室への入室は緊張する。権力のオーラをそこかしこに漏らす焦げ茶色の扉をノックして、彼女は会長室に踏み入った。


 会長室と中で繋がっている隣の執務スペースに木崎愁の姿が見えた。愁が秘書課のフロアにいない時は大概ここいる。


宇津木うつぎさんからです。書類の最終チェックをお願いしたいと……」

『見せて』


デスクでパソコン作業をしていた愁は片手で書類を受け取り、文字の羅列に素早く視線を走らせた。


 彼の鋭い眼差しに惚れ惚れする。書類を持つ手の甲の筋や骨張った指、書類を見つめる瞳を覆う長い睫毛、形の良い唇、愁のすべてが整っていて美しい。


この美麗な男の心を掴んだ女性に対し、一抹の嫉妬を抱かないほど鈴菜はまだ大人になりきれない。架純の前で口にした諦めの言葉が本心なら、諦めきれない葛藤も本心だ。


『修正箇所はない。このまま宇津木さんに渡して』

「……あの……」

『まだ何か用?』


 終業時刻まで残り10分。けれど定時で業務を終える鈴菜とは違い、愁にはこの後も多くの仕事が残っている。

多忙な彼をわずらわせるようなプライベートの話をするべきではないと頭ではわかっていた。しかし時に頭と身体は別々の行動を選択する。


「木崎さんの噂が広まっているみたいです」

『何の?』

「昨日、赤坂で木崎さんが女性を車に乗せているのを私の同期が見かけて……そのことがきっかけで木崎さんに恋人がいる噂として広まってしまったようです」

『そんなことが噂になるのか……』


 溜息混じりに呟く愁はキーボードに触れる手を休めない。彼が鈴菜をその視界に捉えた時間は彼女が入室した際の数秒間だけ。

液晶画面と書類にのみ向けられていた愁の瞳に鈴菜は片時も映らない。


 せめて後少し恋の終演時間を引き伸ばさせて。

元彼の浮気相手と同じレベルになりたくないなど、臆病者が吐き捨てた綺麗事だ。架純にはいい子過ぎると指摘されたが、鈴菜は本当はいい子になんてなりたくなかった。


好きな男に好意を知ってもらいたい。好きな男の視界に映りたい。

たとえ望みが薄くても好きな男の体温を感じたい。


 デスクに向かう大きな背中に手を伸ばし、背後から彼を抱き締めた。愁は鈴菜の接触を拒むでもなく受け入れるでもなく、平然とキーを打ち続けている。


女に抱き着かれても動揺の素振りも見せない愁が憎らしい。最初から愁の眼中にない事実を突き付けられて、心の亀裂はますます広がった。


「ごめんなさい。少しでいいんです。気持ちに決着をつけさせてください」

『君の気持ちはだいたいわかっていた。男の趣味が悪いな』

「それ、よく言われます」


 首筋に顔を埋めて初めて嗅いだ木崎愁の香りは、とても甘い。間近で目にした愁の右耳にピアスの穴がひとつ存在していることを初めて知った。


「木崎さんの恋人の話を聞かせてください」

『この状況で聞きたい話?』

「はい。木崎さんが好きになった人がどんな人か知れたら、諦めようって言い聞かせられるから」


嘘が半分、本当が半分の鈴菜の無駄話を愁は嫌がらない。無表情の仮面の一部がわずかに剥がれ、彼が鈴菜に見せたのは口許に浮かぶ微笑だった。


『不器用な女だよ』

「不器用って性格がですか?」

『そう。脆いくせに必死で強くあろうともがいて、ひとりで立とうとする。男に媚びは売らない、お世辞も言わない、笑わない、可愛げもない』

「……本気でその人を愛しているんですね」

『今の発言でどうしてその解釈になる?』


 “ミヤ”の話をしている時にどれだけ優しい顔をしているか愁は知らない。一度、鏡を見ながら恋人の話でもすれば愁も自身の恋心の深さを自覚するかもしれないが、この真実は黙っておこう。

恋に破れた女の意地悪は神様に少しくらい許されてもいいはずだ。


 愁の背中を巣立った彼女は確認書類を携えて、秘書の仮面を張り付けた。社会人を数年続けていれば苦手なポーカーフェイスも嫌でも上手くなる。


「木崎さんも思っているよりも不器用かもしれませんね。……お疲れ様でした」


最後の一礼は深々と長く。恋の幕引きの挨拶だ。


 今日の仕事を終えた鈴菜を迎えてくれたのは、ビルの谷間に広がる薄暮はくぼの空。柔らかな色合いの空を見上げた鈴菜の目尻から一滴の雫が溢れ落ちる。


 長かった片想いが穏やかに死んでいく。今回の恋の終わりは、浮気されて振られた2年前に比べればよっぽどマシだ。


さようなら、咲けなかった恋の花。

いつか新しく芽生えるその日まで。

さようなら。



Act1.END

→Act2.心恋涙雨うらごいなみだあめ に続く

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