Act2.心恋涙雨

2-1

 夏木グループ傘下の五ツ星ホテル、赤坂ロイヤルホテル三十四階のラウンジで木崎愁は約束の人物の姿を捜した。


薄暗く照明を落とした店内では闇にきらめく都心の夜景を眺める老若男女がしとやかに酒を酌み交わしている。


 窓辺に面したカウンターに華奢な女の背中がひとつ。愁は迷いのない歩みで華奢な背中の隣席に腰を降ろした。


「先ほど警察に行って来ました。冬悟の人となりを根掘り葉ほり聞かれたわ」


 雨宮蘭子と木崎愁の姿が空と同じ黒色に染まる窓に並んで映し出される。窓のスクリーンを通して視線を合わせた二人はどちらも無表情だ。


京都の雨宮本家長女の蘭子は雨宮冬悟の従姉いとこにあたる。本家の人間として警察の聴取に応じた彼女の宿泊先に赤坂ロイヤルホテルを手配したのは愁だ。


『お手を煩わせて申し訳ありません』

「いいえ。むしろ謝罪は雨宮家からするべきよね。分家の一同も顔面蒼白でしたよ。冬悟には必要以上に紫音を溺愛するきらいはあったけれど、まさか紫音の娘と……」


 頬杖をつきながら蘭子はカクテルグラスの脚に細長い指を絡ませた。透明な液体に浸るグラスの底にはオリーブが沈んでいる。


「警察から夏木会長と紫音の関係は聞きました。でもあなたの口からちゃんと聞かせて。舞は夏木十蔵の養女ではなく、血の繋がった娘なのね?」

『ええ。舞の父親は夏木十蔵です』


愁の返答を聞いた蘭子は小さく頷き、グラスのマティーニを口に含んだ。足音もなく歩み寄るウエイターが愁の席にホットコーヒーを置いて去っていく。


「男と女はわからないものね。私が知る紫音は優しくて可愛い妹同然の存在だった。あの子の女としての顔を私は知らない。だけど紫音に勝手にイメージを押し付けて幻滅すること自体がお門違いよね」

『人は過ごす相手によって自分を演じ分ける。男と女の関係はそれが顕著なだけですよ』


 愁が雨宮蘭子と密かに連絡を取り合っている事実を夏木十蔵は知らない。夏木が伶と舞を引き取って10年、愁は定期的に京都に住む蘭子に伶と舞の近況を報告していた。


夏に伶が恋人に誘われて出掛けた日本橋の美術館、アクアドリームで伶は蘭子を見かけている。あの時、自分が雨宮紫音の息子だと蘭子にわかるはずがないと伶は言い切ったが、蘭子は愁の報告書類で成長した伶の容貌を正しく認識していた。


「もしも今夜あなたも一緒に部屋に泊まってと私が誘ったなら、あなたはどうする?」

『蘭子さんが俺に本気であれば、相応の態度で失礼のない答えを表明しますよ』

「冗談は口にしない主義なの。私だって女ですもの。魅力的な男とこうして夜を一緒に過ごしているのに、用件が済んでサヨウナラなんて寂しいじゃない?」


 愁が蘭子と身体の関係を結んだ事実は過去一度もない。これまで彼女とは男女の甘ったるい会話でなくビジネスライクなやり取りがどちらかと言えば多かった。

しかし行き着く先は男と女だ。そのつもりはなくとも今夜はどうなるか、すべては蘭子の気分次第。


「けれど今夜のお誘いは止めておく。冬悟と舞の話を聞いた後では男と遊ぶ気分にもなれない。それにあなたにはまだ聞きたいことがあるの」

『俺は話の続きはベッドの中でも構いませんよ。部屋に行きますか?』

「そんなに乗り気のない顔でベッドに誘われても嬉しくないなぁ。今のあなたは女を抱きたいって顔をしていないのよ。自分の顔をよくご覧なさい」


 正面の窓に映る自分の表情を愁は凝視した。普段と変わらないと思える愁の顔の横に、眉を下げて苦笑する蘭子が映り込んだ。


「意中の人ができたのかしら?」

『心当たりはありませんね』

「ふふっ。いつか私にも紹介してくださいね。木崎さんが本気になった人に興味があるわ」


蘭子の会話についていけない。珍しくたじろぐ愁を横目に、蘭子はひとりでくすくすと笑っていた。

酔っぱらいの相手はまともにするものではない。


「ねぇ、まだ私に隠していることがあるんじゃない?」

『今夜の蘭子さんは切れ味が鋭いですね。何のことでしょう?』

「冬悟は紫音と関係があった夏木会長を恨んでいた、警察はそう言っている。だから夏木会長に復讐するために娘である舞に近付いたって」

『警察の話を真に受けるのも考えものですよ』

「そうね。でも夏木会長にも冬悟を殺す動機がある。大事な娘の貞操を傷物にされたのだもの」


 警察も蘭子も夏木十蔵を買い被っている。夏木は舞の貞操を傷物にされて怒り狂う男ではない。

夏木にしてみれば雨宮の殺害は自分の周りを煩く飛び回るハエを始末した。ただそれだけだ。


『夏木会長が雨宮さんを殺したと?』

「……それも違う気がする。夏木十蔵の黒い噂は京都にも届いているわ。あの人が裏社会と繋がりがあるのはわかっている。雨宮流も似たようなものですからね」

『雨宮流の後ろ楯には京都の朱雲しゅうん会がいましたね』

「そう。朱雲会の先代の会長さんと祖父が友人同士でね。その縁で雨宮は京都で自由にやらせてもらえてる。だから大きな組織の裏にある黒い繋がりを否定はしない。夏木十蔵が後ろ暗いことをしていようが、伶と舞を巻き込まずにいるなら私はどうでもいいの」


舞はともかく、夏木は伶を暗い闇の渦に引きずりこんでいる。夏木のプランでは伶をいずれ愁の後釜に据えるつもりだ。

愁も伶も舞も、夏木十蔵の野望実現の道具に過ぎない。


「木崎さんは夏木十蔵の裏をどこまでご存知? 夏木会長とは付き合いが長いのよね?」

『母が夏木グループ傘下のホテルで働いていたので、子どもの頃から会長とは顔見知りでしたよ』

「従業員の息子を会長専属の秘書にまで引き揚げるなんて、ずいぶん可愛がられているのね。伶ではなくあなたが夏木グループの社長候補と言われているそうじゃない」


 雨宮冬悟を殺した犯人は蘭子の隣で何食わぬ顔をしてコーヒーをすする。空になったグラスの底を転がるオリーブを掬い上げた蘭子は、オリーブの実を品よくかじった。


「まぁいいわ。引き続き、伶と舞の様子は私に教えてちょうだい。あの子達の人生を見守ることが私の生き甲斐なの」

『それが蘭子さんの望みならば』


 蘭子は子どもを産めない。若い頃に患った婦人科系の病気が原因で子を成せないのだ。

美夜のように子を産める身体であっても妊娠を拒絶する女もいる。蘭子のように子を産めない身体になっても尚、子を欲する女もいる。


美夜の気持ちも蘭子の気持ちも、子宮を持たない男には一生わからない感覚だった。

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