2-2

 ラウンジを出た先に敷かれた紅色の絨毯を蘭子は軽やかに闊歩かっぽする。マティーニの酔いの効果で彼女は踊るように歩いていた。


「舞には冬悟が伯父だと話したの?」

『いいえ。そろそろ隠しておくのも潮時だと思っています。俺も覚悟を決めないとならない』

「何の覚悟?」

『舞に嫌われる覚悟です。エレベーター呼びますね』

「待って……」


 エレベーターホールの柱に愁の背中が触れた。柱に押し付けた彼の首もとに蘭子の腕が絡み付き、彼女の唇と愁の唇が接近する。


柔らかな接触が二度続き、蘭子の舌先が愁の唇を妖しげになぞる。軽くと深くを交互に繰り返すリップ音が両者の唇から奏でられた。


「酔って目が変になったのかな。今の木崎さんが舞の父親に見えてしまったのよ。おかしいでしょう?」

『言動が老けているとは言われますが、高校生の娘を持てる年齢ではありませんよ』

「木崎さんなら高校時代に作った隠し子もありえそうな話よ。本音を言うとあなたに本命さんが現れなければ、今夜は抱いてもらいたかった」


 みずから呼び出したエレベーターに乗り込んで蘭子は愁の前から消えた。


 美夜以外の女の唇に久々に触れた。美夜とのキスでは感じた全身から沸き立つ熱や、くすぐったくなる心の甘い痛みは蘭子とのキスでは感じない。


 キスの流れであのまま蘭子の部屋でベッドを共にしても、その行為に愛はなく、精子の放出活動の意味しか持たない。

けれど今夜、蘭子とそうならなくて安堵する自身に愁は冷笑を返した。


こんな時にまで美夜の存在が心を占める自分に我ながら呆れ果てた。美夜以外の女を抱きたいとも思わない自分は本当に、どうかしている。


『舞の父親……ね』


 蘭子と言い、三岡鈴菜と言い、男の内面の変化に女は目ざとい。それでなくても雨宮蘭子は鋭い女だ。


 いい加減に覚悟を決めなければならない。ホテルからの帰り道に伶に連絡を取ると舞はテレビドラマを見ているらしい。

今帰宅すればちょうどドラマが終わるタイミングだ。舞が就寝する前に決着をつけるには都合が良い。


 愁の読み通り、帰宅した時にはドラマは終盤に差し掛かっていた。愁が帰ってきても彼に抱き着かず、舞はわざとテレビに視線を集中させているように見える。


ここのところ舞とは顔を合わせても以前よりも会話は減った。愁はこれまでと何ら変わりのない態度で接しているつもりだが、舞の方がよそよそしくなったのだ。


 ドラマを視聴しながらも愁の存在を気にする舞の斜め前に愁は腰を降ろす。伶に用意させたのは氷とロックグラス、そしてウイスキー。


これから舞と話し合う内容は愁が最も避けてきた話題。

酒でも飲まないとやっていられない。けれど酒に呑まれて冷静さを欠いてもいけない。

グラスにウイスキーを注ぎながら彼は話の切り出しを模索した。


『舞、話があるんだ』

「今じゃないとダメ……?」


 まだ何も咎められていないのに舞は怒られた犬みたく、しょぼくれた様子だ。一体何に怒られると思っているのか。

心当たりがあるのは先月の舞のテスト結果。全教科が過去最悪の点数だったと伶が嘆いていたが、そんなことで愁はわざわざ怒らない。


吉田よしだゆたか。この名前の男と付き合いがあったよな?』

「……何のこと?」


 みるみるひきつる舞の表情を見ていることさえ辛かった。

舞は猫被りでも嘘は上手くない。彼女の顔には、はっきりと狼狽の気配が現れていた。


『全部わかってる。もう隠さなくてもいい』

『愁さん、どういうことですか?』

『舞もいつまでも子どもじゃない。本当のことを知るべきだ。伶もこっちに座れ』


ロックグラスの氷を涼やかに鳴らして愁は琥珀色の液体を喉に流す。話の展開に戸惑う伶も舞の隣に腰を降ろし、愁と舞に交互に視線を移していた。


「愁さんは吉田さんを知っているの?」

『知っている。お前と吉田が定期的に会っていたことも吉田と何をしていたかも。吉田はパパ活の相手だよな? ホテルで会っていたんだろ?』

「……ごめんなさい」


 胸に抱き締めたクッションに顔を埋める舞の横で伶は言葉もなく頭を抱えた。妹が援助交際をしていた事実に動揺するのは兄として当然の反応だ。


『パパ活に手を出したのは自惚れでなければ俺のせいか?』

「それもあるけど愁さんのせいだけじゃないよ。舞、寂しくて……。愁さんもお兄ちゃんも舞の側にいてくれるけど、時々すっごく寂しくなるの。吉田さんも奥さんを亡くして寂しい人だったから舞と同じなんだなぁって思えたんだ。吉田さんが可愛がってくれるのが嬉しくて……いけないとわかっていたけど、そういうことしちゃったの」


涙声で語られた舞の心情に見え隠れする雨宮冬悟への思慕に苛立ちが募る。舞の寂しさを利用して上手く騙したものだ。


『吉田の妻は生きてる。娘と息子もいる。全部、舞の同情を引くための作り話だ。そもそもあの男の名前は吉田じゃない。奴の本名は雨宮冬悟』

『雨宮って……まさかその男は……』


 雨宮の名に反応を見せたのは伶だった。蒼白の顔をさらに青ざめさせた伶は、舞より先に真実の欠片を掴んでいる。


『雨宮は伶と舞の母親、紫音さんの旧姓。ここまで言えば伶にはわかるよな。舞、お前の前で吉田と名乗っていた男は紫音さんの兄だ。雨宮は舞と伶の血の繋がった伯父なんだよ』

「……吉田さんが……舞の伯父さん……?」

『ああ。雨宮には舞より二つ上の娘もいる。娘はお前達の従姉いとこにあたるが、アイツは自分の娘と同じ年頃の姪を騙して平気で近親相姦をする最低な男だ』


 蘭子の話では雨宮冬悟の紫音に向ける溺愛は雨宮一族には周知の事実だった。妻の理英も夫が亡き妹を家族以上の感情で愛していると察していた。


紫音と舞はいわば、雨宮理英の天敵だ。舞は理英にも彼女の子ども達にも絶対に会わせてはならない。

もしも雨宮冬悟の娘が真実を知れば父の醜態を恥じると共に、父と近親相姦の関係を持った従妹の舞に憎悪を向けるだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る