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 トイレを出ると廊下に機嫌の悪い九条大河が仁王立ちしていた。

廊下は一本道。その先を行くにはどうしても九条の横を通過するしかなく、そこを退く気配のない彼に美夜は呆れの眼差しを送る。


「女子トイレの前で待ち伏せしないでよ。変態?」

『うるせぇ。捜査から外されたのに、やけにあっさりしてるな』

「木崎愁がもしもジョーカーなら、あの男と関わりがある私が捜査本部にいると情報漏洩の危険があるからね。当然の措置でしょう?」


会議の前に上野一課長から捜査離脱の決定は聞いていた。上野の決定に異議はない。


「心配しないで。何かあれば懲戒処分だもの。軽率な行動はしない」

『お前の“心配しないで”がアテにならないことを俺はこの半年間で学んだ』


 九条の横をすり抜けようとしたが、今日の彼は甘くなかった。片腕を強く引き寄せられて美夜の身体は九条の両腕に包み込まれる。


『昨日、俺達が夏木コーポレーションに行った後で、木崎と二人で会ったんだろ?』

「それはバディとしての尋問じんもん? それともプライベートな質問?」

『半分は尋問、半分プライベートな質問』


 抱き締める力に反して九条の声は優しい。この抱擁はバディとしてか男としてか、恋に疎い美夜でも九条の秘めた気持ちが彼のぬくもりを通して伝わってきた。


 彼の心臓の音が聴こえる。九条の大きな手で髪を撫でられると少しだけ、ほんの少しだけ心の奥が甘く騒いだ。


ごめん、と心で呟いて美夜は九条のぬくもりを吸った。愁とは違って煙草の匂いがしないスーツは九条を体現する清潔な香りだ。

何もかもが愁とは違う男のぬくもりを感じて生じた、安心と違和感の真逆の感情。


「昨日、夜に会った」

『だと思った。お前とアイツが普通の恋人なら、俺も幸せになれよって言えるけどさ……』

「そもそも普通の恋人が何なのか、私にはよくわからない。だけどこんなに人を恋しいと思ったのは木崎さんが初めてなの。あの人じゃないとダメだった」


 九条とだったら普通の恋人になれたのかもわからない。彼が決定的な一言を言わないでいてくれるのは、恋人ではなくバディでいたいから……そんな勝手な解釈も九条に失礼だ。


 抱き締める力が緩まった隙に美夜は九条から離れて距離をとる。

乱れた髪を手で撫で付け、一纏ひとまとめにしてバレッタで留めた。この赤いバレッタは九条に貰った誕生日プレゼント。


『それ使ってくれてるんだな』

「物は使ってこそだからね。有り難く使ってる」


先ほどの抱擁の後でどうしたらいいかわからず、二人は視線を合わせられない。けれどバディの一線を越えたくない想いは共通していた。

恋人じゃなくバディでいたい。美夜の勝手な解釈が二人に逃げ道を用意してくれる。


『俺がジョーカーを逮捕すればお前は怒るか?』

「……ジョーカーの正体によっては怒るかも」


 赤いバレッタの女は一本道の終わりで足を止めた。


「ジョーカーを逮捕するのは私だから。他の刑事に手錠はかけさせない」


 分かれ道は二つ。右側に行けば幸福、左側に行けば破滅。

彼女はどちらの道を選択する?


        *


 静かな会議室に揺らぐ二つの人影。長机に並んで腰掛ける人影の正体は小山真紀と上野恭一郎だ。


『お前から神田を外せと言ってくるとは思わなかったよ』

「彼女を守るためです。先月の一課長のやり方を真似してみました」


 警視庁公安部が美夜の動向を監視する方針を固めた。近々、美夜には公安の聞き取り調査が待っている。

公安の追及に備えて美夜を一連の捜査から外すよう上野に進言したのは真紀だった。


「本音はこんな時くらい神田さんに頼ってもらいたいです。プライベートの話でも悩んでいるなら相談して欲しい」

『神田はお前に充分頼ってるさ。アイツはお前の気持ちをわかってる』


 木崎愁のジョーカー説が濃厚になればなるほど、警察内部の美夜への風当たりは強くなるだろう。犯罪の疑いがある者との個人的接触……それは警察官のタブーだ。


刑事と犯罪者は絶対に相容れない者同士。ましてや恋愛など最大の禁忌。

個人の恋愛くらい自由にさせてやればと、今回に限っては真紀も軽々しく口にできない。


『ジョーカーの情報が少ない今は可能性をひとつずつ追って潰していくしかない。どこのヤクザもジョーカーの話題にはこぞって口をつぐむ。よほど夏木十蔵が恐いんだろうな』

「夏木十蔵を恐れずにジョーカーの情報提供をしてくれる裏の人間なんて、いませんよね」

『いや、ひとりいるな。……試しに九条を東京拘置所に行かせてみるか』

「拘置所って……まさかの?」


 東京拘置所にはあの男がいる。かつて日本だけでなく世界を掌握しかけていた犯罪組織の帝王は、独房で死刑を待つ身となっても悠々自適に生活しているそうだ。


『そのまさか。恐いものなしのなら気まぐれにジョーカーの話をしてくれるかもしれん』

「九条くんにはまだ荷が重いのでは……」

『何事も経験だ。むしろ奴は九条の性格を面白がりそうだな』

「奴の手玉に取られて終わる気もしますけど……」


真紀の横で上野が失笑している。帝王のてのひらで右往左往する九条を思うと笑い事ではない。


『手玉に取られて帰って来てもいいじゃないか。それも大事な経験だ。アイツと対等に渡り合えるのは早河はやかわ美月みつきちゃんくらいだからなぁ』

「あの二人は別格ですから……。第一、面会の許可が下りますか? 私や一課長でも今は面会が難しくなっていますよ」

『手続きに時間がかかるかもしれないが、なんとかなるだろう』


 九条とあの男を会わせるのは多少の不安要素はある。けれど経験を積ませるにはいい機会だ。

美夜も九条も刑事として良い方面に育っている。このまま誰の命も失わずに、事件の終結を迎えたい。

必ず生きて帰る。それが刑事の最大の任務だ。


『あっちの仕掛けの結果が出るのはあと少しかかりそうか?』

「そうですね。九条くん達のデータを元に一輝と横山よこやまさんと衛藤えとうさんが頑張っていますよ。今月末には何らかのアクションがあるはずだと言っていました」


 真紀の夫、矢野一輝は夏木コーポレーションの子会社であるエバーラスティングが配信するクライムアクションゲーム〈agentエイジェント〉と連続絞殺事件の因果関係を調べている。


先月、九条や南田を含めた警視庁の警察官数名を被験者に選び、矢野はゲームのサンプルデータを集めた。

〈agent〉アプリはインストールした時点で位置情報が抜かれる仕組みだ。被験者に支給したスマートフォンの位置情報はすべて警視庁の住所。〈agent〉の管理者も警察の動きに気付いたはず。


 第一の仕掛けだけでは獲物は寄ってこない。だから矢野は上野一課長の協力の下、第二の仕掛けを施した。矢野と警察が仕掛けた罠が功を奏す日まで……あと少し。

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