1‐8

 愁に殺人を指示している人間がいるとすれば、夏木十蔵しかいない。


 亡き紫音の夫である埼玉の明智社長も先月の伊吹大和も夏木十蔵が命じて愁に殺させたのか?

夏木十蔵と愁には単なる会長と秘書の関係以上の繋がりがあると思えた。


「だからあなたが雨宮を殺したのね?」

『それが一夜を共にした相手に言う言葉?』

「今はその話は関係ない。舞ちゃんを大切に思ってるあなたには雨宮を殺害する動機が充分にあった。それとも雨宮の殺害は夏木十蔵が命じたの?」


 美夜の質問に愁は答えず、信号待ちに彼は白い箱から煙草を一本抜き取った。飽きもせずに銘柄はまたウィンストン。

美夜の家に置き去りにした煙草と同じだ。


『動画のデータはどうやって手に入れた?』

「雨宮が借りていた銀行の貸金庫に動画のデータが入ったUSBが保管してあったの」


火をつけた煙草を咥えた愁は口の端を上げて薄く笑った。車内に漂う芳醇な甘い香りは彼を顕現けんげんする魅惑の匂い。


『あの野郎、ご丁寧に貸金庫にまで保管してたのか。家、職場、奴の車の中までデータのコピーがないかチェックしたんだが銀行の貸金庫は見落としてた』

「どうせ雨宮の自宅や会社に出入りした証拠は消し去ったんでしょうね。マンションや会社の防犯カメラ映像もハッキングでもして消した?」

『ご名答。うちには優秀なエンジニアがいるからな。消えた防犯カメラの映像はお前らが足掻いたところで見つけられねぇよ』


 刑事に追及されても余裕綽々なポーカーフェイスを崩さない彼の言動が癪に障る。通りに面した赤坂警察署の前を通過する時に顔を伏せてしまったのは、犯罪者が運転する車に同乗している罪悪感のせい。


『バラして海に沈めたつもりなんだが、死体の処理が甘かったか。骨の一部が流れ着くとはなぁ』

「雨宮を殺したと認めるのね?」

『そう、殺したのは俺だ。でもお前は俺が雨宮を殺したとは上司に報告できない。側に相棒もいないプライベートな時間に俺の自白を引き出したとなれば、俺と自分の関係を上司に話す必要が出てくる。俺とのことは隠せるなら上司にも同僚にも隠したままでいたい。違うか?』


愁の指摘は図星だった。返答に窮した美夜は震える唇を結んで愁の横顔を見据える。


「私達の関係って何?」

『セックスした関係?』

「そんな生々しく言わないで」

『肉体関係って言葉よりは生々しくはない』

「どっちもしていることは同じよ」


 次の交差点を左折すると車が下り坂の道に入った。赤坂の名前に相応しく、下りと上りの坂道がしばらく続く。


『何を怒ってる? 会社に来た時からずっと不機嫌だよな』

「……生理が来た。今、2日目」

『良かったな』

「それだけ?」

『他にあるか? 刑事が人殺しの種で孕んだなんて洒落にならねぇよな。確率はフィフティフィフティでもヤることはヤったんだ。ガキができてなくて良かったなで間違いはないだろ』


 美夜が刑事と知っていて愁は抱いた。愁が人殺しと知っていて美夜は抱かれた。

衝動的な肉体の求め合いの果てに待つ望まぬ命の存在。


 舞を身籠った紫音の気持ちは想像するしかないが、彼女も苦しんだかもしれない。夏木会長と紫音の間に愛情があったとしても身籠ったのは夫ではなく不倫相手の子どもだ。


同じ女として紫音の生き辛さが少しは理解できる。以前の美夜なら紫音が二人の子どもを残して自殺を選んだことにも理解を示せなかっただろう。


 愁の言うように妊娠の確率はフィフティフィフティ。どちらに転がるかは誰にもわからない。

妊娠しなかったは所詮しょせん、結果論に過ぎない。


「男って本当に勝手だね。女が次の生理が来るまでどれだけ不安か考えたこともないでしょ? 一時の感情で馬鹿なことをした自分に自己嫌悪して、避妊のないセックスには後悔しか残らない。快楽だけで終われる男にはこの苦しみは一生わからない」


 目的地のないドライブは赤坂を一周していた。美夜の糾弾にもだんまりを決め込んで煙草をふかす愁は、見慣れた赤坂の道で悠々とハンドルを操っている。


「何か言ってよ」

『反論はない。男は出すもの出せればそれで終わる。妊娠の怖さや不安も口では何とでも言えても本心では理解はしていない。俺に怒ってるのはつまりそういうことか』

「……違う。煙草を置き忘れたあなたにも連絡を返さないあなたにも、刑事だと知っていて近付いてきたあなたにも怒りは感じてる。でも一番は、あなたみたいな最低な男のことを毎日考えてる自分に苛立つのよ。私は私が許せない」


 美夜の家を少し過ぎ、タワーマンションに併設された公園の前で車が停車した。素直な心情を吐露した美夜の隣では煙草の始末を終えた愁がシートベルトを外していた。


『俺もお前のこと毎日考えてた』

「嘘つかないで。だったらなんで煙草の忘れ物の連絡に返信しないの? これ見よがしにわざとベッドの側に置いて……。あの煙草を見るたびにあなたに会いたくなるのよっ……!」

『そういうところ本当に素直だよな』


愁の大きな手が頬に触れ、優しく肌をなぞる彼の指の動きに彼女は初めて自分が泣いていたと知る。

会いたくてたまらなくて会えないと苦しい。

会わない方がいいと耐えて、会えたら嬉しかった。


「私のことどう思ってる?」


 涙声で呟いた言葉は驚くほど陳腐なセリフ。メロドラマの主人公なら、こんな時は何て言う?


『いつか殺したいと思ってる』

「じゃあ今殺せば?」

『今は殺さない』

「どうして?」

『美夜とキスがしたいから』


肝心な時にはいつだって名前呼び。ずるくて最低な男の唇の味は今夜も甘くて優しかった。


『お前は俺のことどう思ってる?』


 狭い車内で密着する二つの身体。額と額を触れ合わせ見つめ合う男女の唇は濃艶のうえんに湿っている。


「いつか逮捕したいと思ってる」

『物騒な女』

「あなたにだけは言われたくない。だから私が逮捕するまで絶対に誰にも捕まらないで」

『それは宣戦布告か愛の告白、どっち?』

「愛の告白に決まってるでしょう?」


 闇に溶け込む二つのシルエットが再び重なる。二度目のキスの合間に薄く目を開けた美夜の目の前には、暗がりでもはっきりとわかる愁の長い睫毛が扇状に伏せていた。


 これは女刑事と犯罪者の愛の告白と宣戦布告。

強がりな女刑事が愛を告白した相手はその手を赤い罪に染めた人殺し。誰よりも愛しい殺人者のぬくもりが女刑事の心の一番奥を抱き締めて離さなかった。

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