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 夏木コーポレーションのビルに踵を返して美夜と九条は虎ノ門のオフィス街を歩く。


 11月の夜空の下には、疲れた顔をしたサラリーマンの二人組や鼻唄でも歌い出しそうに意気揚々とパンプスのヒールを鳴らすオフィスレディ、夜のオフィス街に一体何の用があるのか不明なリュックを背負った大学生風の男、寒空でも袖をまくって腕のタトゥーを見せびらかして歩く黒人男性、様々なジャンルの人間が混在していた。


『誕生日に会って避妊しなかった男があの第一秘書か』

「否定はしない」


すれ違う人々は混沌としていても昼間の活気を失くしたオフィス街そのものは静かで、所々に灯るビルの灯りが働き者の幽霊のよう。


『あいつ、イケメンだったな』

「そう?」

『あれは他にも女がいるぞ。しかも大量に』

「でしょうね」

『お前、遊ばれてない?』

「そうかもね」

『なんでそんなに他人事なんだよ。自分のことだろ?』


 呼気を強めた九条の声が先を行く美夜の足を止めた。すぐ横のビルから漏れる灯りに照らされた九条の表情はどう見ても怒っている。


 他人の事情を本気で心配して怒りをあらわにする九条に半年前は呆れていた。今も半分は九条が怒る理由がわからない。

けれどもう半分は、それが九条大河の優しさだと理解していた。彼の鬱陶しくて暑苦しい優しさに美夜は支えられている。


「九条くんが思ってるほど私と木崎さんは甘い関係じゃない。恋や愛とか、あの人との間にある感情はそれだけじゃないの」

『意味がわからねぇ……』

「いつかわかる日が来るよ。心配してくれてありがとう」


 コートのポケットの中でプライベート用のスマートフォンが振動している。言葉少なげに綴られたメッセージを一読した美夜は返信を打たずにスマホを手放した。


 木崎愁は勝手な男。勝手で最低な人殺し。

他にも女がいる? そうかもしれない。

遊ばれている? そうかもしれない。

そんなことわかっているのに彼からの連絡ひとつでどうしようもなく心が踊る。


だから恋なんてしたくなかった。

愛なんて知りたくなかった。


 ──[21時、赤坂駅一番出口の前。迎えに行くから待ってろ]──


 こちらの返事を聞かない一方的なメッセージに導かれて美夜は赤坂駅で愁を待っていた。


 九条の言う通りだ。きっと自分も大量にいるであろう愁の遊びの女のひとりに過ぎない。

それでもこうして美夜が愁を待っているのは、二人を繋げる糸が単純な色恋の赤い糸だけではないから。


赤い糸に絡むもう一本の糸は刑事と犯罪者を繋げる黒い糸。赤い糸と黒い糸は交差して、絡み合って、もつれて、ほどけない。


 約束の時刻を3分オーバーして迎えに来た愁の車は以前も乗車した黒のクーペ。車内に充満する煙草にしては甘ったるい紫煙の匂いも今では嗅ぎ慣れてしまった。


 助手席に美夜を乗せた車が一ツ木通りから脇道に入り外堀通りに出たところで、無言だった愁が口火を切った。


『先月、雨宮から会長宛にあの動画つきのメールが届いた。舞の動画を一億で買えとの要求だ』

「やっぱりね。雨宮は舞ちゃんが夏木会長の養女だって知っていて……」

『だが、雨宮の本当の目的は金じゃない。ヤクザとのトラブルで金に切羽詰まっていたのは事実だろうが、本当の目的は会長への復讐と謝罪だ』

「復讐と謝罪?」


両側を背の高いビルに挟まれた外堀通りは赤色のテールランプが浮遊している。周囲の街の灯りと車の灯りがフロントガラスから煌々と差し込んだ。


『10年前の3月、埼玉の川口市で不動産会社の社長とその嫁が殺された。警察が名付けた名称では埼玉不動産会社社長夫妻殺人事件……とか呼ばれてるんだよな。知ってるか?』

「……ええ。地元と近い場所だったからあの事件は周りでも話題になってた」


 まさか今、愁からの話題を持ち出されるとは思わなかった。心臓の動きが微かに速いのは唐突な過去の介入に整わなかった心の動揺。


『死んだ不動産会社の社長は伶の父親だ。殺したのは俺』

「今さら何を聞いても驚かなくなった。あの不動産会社社長の死因は銃殺。あなたの犯行と聞いても納得できる」


 埼玉不動産会社社長、明智信彦と妻を殺した犯人はいまだ捕まらず、未解決事件扱いになっていた。

美夜の幼なじみの佐倉佳苗を殺害した明智はある意味では美夜の共犯者とも言える。その明智を殺した犯人が、木崎愁。


10年前と現在が繋がる。

本当に、何の因果だろう。


「埼玉の事件と雨宮には何の関係が?」

『あの時、明智と一緒に俺が殺した女は伶と舞の母親じゃなく明智の再婚相手。伶と舞の産みの母親は舞を産んだ1年後に自殺してる。旧姓で雨宮紫音……雨宮冬悟の妹だ』


 美夜は瞬時に相関図を脳内に描く。

埼玉の明智家、養子先の夏木家、雨宮家、それぞれの複雑な家系図と相関図の中心には伶と舞の兄妹がいた。


「舞ちゃんは雨宮冬悟の血の繋がった姪?」

『狂ってるよな。雨宮は舞が姪だと知っていて舞を買春し、舞との動画を夏木への脅迫に使った。警察の読みは正解だ。最初から夏木十蔵への復讐に利用するために舞に近付いた』


 車が巨大な交差点の渦に呑まれていく。左折した車は青山通りに入った。

レゴブロックのような四角いビルがひしめき合う青山通りは夜間も交通量が多く、窓を閉めていても横を流れる車の走行音が聞こえる。


「舞ちゃんは雨宮が実の伯父だとは……」

『知らないからこの事態を引き起こした。雨宮は舞の前では偽名を名乗っていたらしいが、そもそも舞は母親の紫音のことすらろくに覚えてない。俺や会長が舞にすべて隠してきたツケだ』


表情の変化に乏しい愁の顔に初めて物憂げな陰が宿る。闇を照らす街の灯りが浮かび上がらせた愁の横顔は哀しげで、意図せず心に疼いた甘い痛みに慌てて蓋をした。


「舞ちゃんと雨宮の関係はわかった。さっきの、夏木会長への復讐と謝罪ってどういう意味?」

『舞の本当の父親は夏木十蔵だ。紫音が会長と不倫してできた娘が舞。雨宮はそのことを紫音の日記で知った』

「養女じゃなくて実子……?」


 さすがに頭が混乱してきた。脳内で修正した家系図は、夏木十蔵と舞が養父と養女ではなく血縁関係がある父と娘の糸で結ばれる。


『雨宮は紫音が自殺した原因が会長との不倫だと思い込んでいた』

「それで舞ちゃんとの動画を脅しのネタに利用して会長に復讐と謝罪の要求を?」

『真実なんてものはどれだけ探っても本人にしかわからないのにな。雨宮は紫音を妹以上の感情で溺愛していたようだし、姪とヤるような頭のおかしい男の妄想に付き合うのも馬鹿らしい。会長は雨宮に一億寄越よこしただけで一言も謝罪はしなかった』


 謝罪しなかった夏木十蔵。妹を夏木会長に奪われたと思い込んだ雨宮冬悟。

両者の間に何が起きたか、美夜は思考を巡らせる。

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