4-7
疲労
クリスマスの飾りにデコレーションされた師走の赤坂は今夜も酔いどれの老若男女が集っている。都会は好きでも嫌いでもないが、心に巣食う孤独を誤魔化すには東京の喧騒は心地よかった。
名を知らぬ人々が街に残したぬくもりを使い捨てカイロのようにして暖を取る。そうやって簡易的に自分を暖めたところで心の芯は冷たいまま、後追いの淋しさに侵食される。
東京にいれば赦されると思った。ここには様々な人間がいる。
ひとりでいても、誰かといても。
恋愛しても、しなくても。
結婚しても、しなくても。
子どもを産んでも、産まなくても。
男が女でも、女が男でも。
人の数だけの生き方が赦されている東京なら、自分のような人間が紛れても赦されるかもしれないと思った。けれど今もまだ、上手くは生きられない。
わざとゆっくりとした足取りで赤坂駅前を通り抜け、赤坂氷川公園の交差点から坂道に入った。
この街に越してこなければ木崎愁とは出会わなかった。異動先の警視庁への交通の利便を考えて選んだ赤坂の街で偶然立ち寄ったイタリアンレストラン。
無口で無愛想な男と相席を共にした春雷のあの夜と同じ気分だ。春の雨に打たれて冷えた心は人肌を欲し、相合い傘のカップルの笑い声が羨ましかった。
あの日にあの時に、あそこで出会わなければ……と、ラブソングの常套句を思い出して笑ってしまう。恋も愛も不必要なものと切り捨ててきた孤独な女が初めて欲しがった男は、女が愛してはいけない男だった。
もて余す空虚の淋しさは春雷の夜と同じでも、孤独な大人の寄り道は今夜は叶わない。
行き付けのイタリアンレストラン、
風にはためくイタリアの国旗もメニューが綴られたブラックボードも軒先にはなく、代わりにcloseの看板が出ていた。 ムゲットは水曜日が定休日だ。
肩をすくめて踵を返した美夜の耳にかすかな物音が届いた。地下一階のムゲットに続く階段から物音は聞こえる。
職業柄、真っ先に不審者の可能性を疑った彼女は用心深く階段の上部から視線を落とす。ムゲットの営業中は
「あら? ……美夜ちゃん?」
「……園美さん?」
人影が発した声に彼女は驚いた。地下に伸びる階段の先にいた人影の正体はムゲットのオーナーシェフの妻、白石園美だ。
「お店は休みですよね?」
「明日の仕込みに来てたのよ。どうぞ入って」
「定休日にご迷惑では……」
「大丈夫、大丈夫。階段、足元薄暗いから気をつけてね」
園美に手招きされて誘われた地下への秘密空間。2ヶ月ぶりに来店したムゲットの店内は相も変わらず温かみのあるオレンジ色、暖房が効いた店内の空気が肌寒い夜道を歩いてきた美夜の身体に優しく沁みた。
厨房では園美の夫、オーナーシェフの白石雪斗が包丁を軽やかに操って食材を切り分けている。
「雪斗ー。美夜ちゃんも来たよ」
『いらっしゃい。神田さん久しぶりだね』
「定休日にお邪魔してすみません」
『構わないよ。ちょうどもうひとり、お客様がいらしてるんだ』
雪斗の穏やかな眼差しがカウンターに注がれる。カウンター席に置かれたワイングラスがオレンジの灯りに煌めいて揺れた。
「……なんで……」
『奇遇だな』
ワイングラスを片手に美夜を射抜く二つの瞳が三日月型に笑っている。何が面白いのか肩を震わせて失笑する木崎愁をねめつけて、美夜は彼の隣の席に腰掛けた。
「木崎さんとは私達が仕込みに来た時に表の道でバッタリ会ったの。美夜ちゃんお夕御飯は食べた?」
「まだ……。忙しくて食べる暇がなかったんです」
『トマトクリームのパスタならすぐにご用意できますよ。神田さんトマトクリームお好きでしたよね』
客の好みを熟知する雪斗はさすがオーナーシェフだ。
こうも身体と心が疲れていると、
しかし誰かの手で作られたぬくもりが宿る食事は別だ。祖母の料理とムゲットの料理はいつも美夜の心を救ってくれる。
ここは人肌が恋しい夜に辿り着いた唯一の居場所。東京で見つけた心許せる大切な場所。
「じゃあパスタを……」
『木崎さんもアラビアータの前につまみお出ししますね』
『お願いします』
美夜達のオーダーの準備に取りかかる白石夫婦を美夜も愁も眺めている。数時間前に取調室で対峙していた男と貸切状態の店のカウンターにふたりきり、何かを話したくても言葉が浮かばない。
『そんな嫌そうな顔するなよ。家が近所なら偶然会う確率はゼロじゃない』
「そちらの家は反対方向ですよね。ムゲットに寄るためでもないとこの道は通らないじゃない」
『ムゲットの定休日忘れてたんだ。あと、この道を通るのはムゲットに寄るためだけじゃない。誰かさんの家の通り道だからな』
聴取の名残の気まずさを引き連れているのは美夜だけらしい。澄まし顔の愁には聴取で見せた
人の気も知らないで呑気に酒なんか飲んでる場合かと、吐き出したい毒も愁の甘い瞳に酔わされて吐けなくなった。
園美が愁と美夜の間にカプレーゼの皿を置いた。品よく盛り付けられたトマトが色鮮やかだ。
「二人ともご無沙汰だったからどうしてるかなとは思ってたの。木崎さんは9月に美夜ちゃんと一緒に来店された時ぶりよね」
『そうですね。帰りが遅くてラストオーダーにも間に合わない日が続いていたんです』
愁の表と裏の顔の使い分けは何度目にしても見事だった。無口と無愛想が服を着て歩くこの男も、馴染みの店での人付き合いは一応大切にしているようだ。
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