4-8
園美達の前で事件の話はできない。けれど他に愁と話せる適当な話題もない。
カプレーゼとワインで場を
「ラストオーダーにも間に合わない日が3ヶ月も続く? 次から次へと口から出任せが出るよね」
『出任せじゃなくて言葉のあや。本当はここに来るとお前に会いそうだからわざと避けてた』
声を潜めたふたりの内緒話は厨房で作業をする園美と雪斗には聞こえまい。
「じゃあ今日はなんでここに来たの?」
『最後の晩餐は白石シェフのパスタと園美さんのコーヒーって決めていた。いつ桜田門の権力が取っ捕まえに来るかわからないからなぁ。檻の中じゃ、こんな上手い飯食えねぇだろ?』
カプレーゼのトマトとモッツァレラチーズを咀嚼しつつ彼は不敵に微笑した。捕まる気もないくせに最後の晩餐とほざいて美夜を試す愁が憎らしくて愛しくて、苦しかった。
美夜がオーダーしたトマトのクリームパスタと愁がオーダーしたペンネアラビアータがカウンターに仲良く並ぶ。雪斗が作るパスタは確かに最後の晩餐に選びたくもなる絶品の味だ。
厨房で仲睦まじく料理の仕込みを行う園美と雪斗の姿が微笑ましい。
結婚だけが幸せの形とは思わない。結婚しても笑顔ではない人もいる。
子どもを産んでも捨ててしまう母親もいる。子どもを授かれない苦しみを経験する女もいる。
日本とイタリアの遠距離恋愛を経て結婚した園美達にも不妊の悩みや葛藤の過去があった。きっと今も夫妻は人には見えない悩みや葛藤を抱えている。
だけどここで出迎えてくれる園美と雪斗はいつだって笑顔だ。
夫の隣で微笑む園美をほんの少し羨ましいと思うのも、それもこれも全部、何食わぬ顔で美夜の隣に居続ける男のせいだった。
帰りがけに園美が愁に、片手に収まるほどの小さな紙袋を渡していた。彼はそれを無造作にコートのポケットに押し込んだが、ムゲットで愁が購入する品物は思い当たらない。
食後のコーヒーと共に出されたクッキーの余りを舞への土産にでもしたのだろう。
見送る園美に会釈して二人一緒に暖かな地下の楽園に別れを告げた。一歩ずつ踏みしめる地上への階段は地獄まで続く
自然と繋がれた手と手はどちらからもほどけない。絡み合う男と女の指先が
送ってくれと頼んでもいないのに愁の足は美夜の家の方向に向いていた。坂道を登って角を曲がれば、美夜の自宅はすぐそこ。
短い散歩道の終着は赤レンガのマンションの手前。
「帰りに赤坂の街を見て考えてた。こんなに沢山の人がいるのに、どうして私はあなたなんだろうって」
闇と同化する愁の黒いコートが視界いっぱいに広がった。抱き寄せられた胸元に染み付く煙草と冬の匂いが心の奥を甘噛みする。
後悔しても昨日はどこにも落ちてない、急かしても明日は降ってこない。あるのは刹那の今。
『……美夜』
「何?」
『……いや、いい』
珍しく口ごもった愁は言いかけた何かを誤魔化すように薄く笑って、冷たい唇を美夜に寄せた。拒めなかった今宵のキスは極上に甘ったるくて気が狂う。
街の暗がりに隠れた秘密の恋人達は唇の上で別れを惜しんだ。
会うたびに思い知らされる。骨の
会うたびに刻み込まれる。骨の髄まで、彼に愛されていることを。
*
トラットリア〈
取り扱うアクセサリーは鈴蘭のモチーフのみ。インスタグラムを通じて募ったハンドメイド作家達の出品場所として提供したこのスペースが園美のお気に入りの場所でもある。
『園美、帰る準備できたか?』
「うん……」
夫に声をかけられてもアクセサリーを眺める園美は上の空。先刻までカウンターで不器用な愛を語らっていた男女の残像が視界の隅にちらついていた。
『浮かない顔してるな。どうした?』
「美夜ちゃんと木崎さん、また来てくれるよね? このまま、もう二人には会えない気がするの」
また来てね、と言って見送りに出た園美に美夜も愁も曖昧に頷いただけだった。雪斗はハンガーラックに吊り下げられた自分と園美のコートをハンガーから外し、うつむく園美にコートを差し出す。
『こういう仕事してるとお客さんの背景も色々と見えてくるよな』
「昨日いらしたお客様も一組、既婚者が奥様ではない人を連れていたものね」
コートを着た園美が首に巻いたカシミヤのマフラーは雪斗のイタリア土産。園美が白色、雪斗は淡いブルーグレーの色違いだ。
『全部、気付かないフリだよ。背景にどんな事情がある人も等しく、俺達の大切なお客様だからな』
「うん。木崎さんが本当はどんな人でも、美夜ちゃんが私達には言えないことを抱えていても関係ない。大切なお客様」
『二人とも、もういらっしゃらないかもしれない。だから出会いは一期一会なんだ』
雪の色に似た純白のマフラーに埋まる園美の髪を雪斗が優しく整えてくれた。
器用な彼の手が園美は大好きだ。その手で生み出される彼の料理も彼自身も愛している。
確かな事実はどちらからも聞かされていないが、美夜と愁は愛し合っている。二人の気持ちは園美の目から見ても歴然だ。
相席が縁で常連客同士が結ばれた。店の経営者としては喜ばしい限りでも、恋の成就を手放しで喜べない事情を美夜と愁は抱えている。
オレンジ色の電気が消えた店内が寂しげに
『木崎さんは何を買われたんだ? ワインを飲む前にアクセサリーを選んでいただろ?』
背後に飛んできた夫の問いかけに先を行く園美の足が止まる。振り向いた彼女は人差し指を口元に押し当てて微笑した。
「……秘密」
『おいおい』
「私と木崎さんの二人だけの秘密にしておきたいの。軽々しく言葉にできないくらい、特別な気持ちが入った物を選んでいらしたのよ」
愁はあれを美夜に渡すつもりで選んでいた。とても悲しげな顔で、とてもいとおしそうに。
「二人共、幸せでいて欲しい。二度と……会えなくても」
鈴蘭の花言葉に園美は祈りを捧げる。
どうか、どうか。彼と彼女に幸せが訪れますように。
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