4-29

12月27日(Thu)


 女刑事が主人公の推理小説は丸2日費やしても読み終わらなかった。物語の終わりまで残り30ページの場所に挟んだしおりは、出版社の名前が印字されただけの味気ないもの。


“この街は腐った楽園だ”──。


 小説の冒頭、女刑事が六本木ヒルズから眺める夜景に対して吐き捨てたモノローグだ。東京を腐った楽園と皮肉る女刑事が、腐った楽園に蔓延はびこる腐った人間の歪んだ正義と悪意に挑むシリーズ第一作目。


女刑事の物語は栞の場所から先へは進まない。永遠に迎えないラストシーンを美夜は知らないままでいたかった。


 早起きと朝寝坊が混雑する夜明けの街を貫く国道を進むと、日光二荒山神社にっこうふたらさんじんじゃの大鳥居が見えてきた。


鳥居の前を左折すれば、空の色と同じ中禅寺湖がお目見えする。愁の横顔の向こうに見えた湖は、朝と夜の狭間の色が溶け込んでいた。


 可愛らしい外観のペンションや民宿が建ち並ぶ湖畔沿いの道を軽快に通り過ぎ、辿り着いた県営駐車場は雪に覆われていた。駐車場の向かいには中禅寺湖の名前の由来となった中禅寺が建っている。


 ダウンジャケットを着込んでも身震いする寒さだ。風が強く、乾燥した空気が肌に触れて痛かった。

寝起きの太陽が顔を覗かせたが気温はいまだ氷点下の世界だろう。


 駐車場に車を置いて二人は湖岸の小道に侵入した。道に積もった雪は所々凍っている。

ざく、ざく、ざく。地面の雪を踏み締めるスノーブーツの音は二人分。

時折、どちらかが凍った地面に足を滑らせても厚手の手袋を嵌めた手と手を繋いでいれば怖くなかった。


 棒立ちで道に立ち尽くす看板には、この先にある英国大使館別荘記念公園とイタリア大使館別荘記念公園の冬季休館を告げる貼り紙がされていた。休館期間は12月1日から来年3月31日まで。


紅葉の見頃は過ぎ、年末の仕事納めにも入っていない今の時期は観光客が少なく、日光の街も閑散としている。休館の貼り紙に素知らぬ顔をして美夜と愁は木々が茂る小道の奥に足を進めた。


 英国大使館別荘記念公園を過ぎて、イタリア大使館別荘記念公園の看板が見えた。敷地内はチョコレートケーキに粉砂糖をまぶしたように、茶色い地面を白銀の雪が覆っている。


駐車場からここまでは徒歩10分とインターネットの案内には書いてあったが、不慣れな雪道では体感的にそれ以上の時間を歩いた気分だ。爪先まで冷えた両足に鈍い疲労を感じる。


 積もる雪に美夜と愁以外の足跡はない。冬の早朝に休館と知りつつこの場を訪れる物好きは朝日を浴びる中禅寺湖を撮影したがるカメラマンか、人が来ない場所を求めて彷徨さまよう者のみ。


 湖を臨むベンチからは桟橋さんばしが見えた。山からの風で水面は揺れ、湖畔に近い場所の水は凍っている。


「まだ知識もなかった四、五歳の頃、海や湖の水はすくうと透明なのに、どうして空と同じ色に見えるのか不思議だったの」

『変なこと考えるガキだな。お前、夕焼けはどうして赤く見えるのか……を延々と考察するタイプの子どもだっただろ?』

「そうそう。大人に聞いても正確に答えられる人はいなくて。小学生の時に光の波長の吸収と反射によって見える色が違うって知った」


 雪まみれのベンチの背もたれに身体を預けた美夜は空を仰ぎ見た。朝焼けの空が少しずつ孔雀青くじゃくあおに染まってゆく。


愁と会う時はいつも夜か雨の日だった。今日に限って、曇りのない青い空。存在を信じてもいない神の祝福を、最後くらいは信じてみたくなる。


「自然って凄いと思ったけど、海や湖の底に実は絵の具のパレットがあると信じていた五歳の私はきっとがっかりしたんだと思う。その頃はまだおとぎ話を信じるくらいには純粋だったからね」

『今は純粋さの面影もねぇな』


 愁が笑っている。彼の隣にいる美夜も口元から笑みが溢れた。

笑う唇に押し当てられたもう片方の唇。冷えた外気が届かないここだけは熱く、絡めた二つの舌も熱っぽい。

ひとつになったふたつの唇と身体が、またひとつずつになった。


 傍らに添えたハンドバッグを開いた美夜は、そこに忍ばせていた三つの物を順に取り出した。まずは美夜の警察手帳、次に手錠がベンチの座面に並ぶ。


最後に愁の愛用拳銃、ワルサーPPKと銃に装着するサイレンサーが美夜の華奢な手に収まった。


『そういえばワルサー使ったことあるのか?』

「あるわけないでしょ。刑事が持つ銃の種類は限定されてる。せいぜいS&Wのサクラか、この前の立てこもりで使ったシグ・ザウエルくらい」

『それは不安だな』

「警察舐めないでください」


 冗談を言い合って口を尖らせながら立ち上がった美夜はベンチに座る愁の側を離れた。雪に埋もれる地面を踏みしめ、足場が安定する場所を探し当てた彼女はそこに立ち尽くす。


 銃に残る弾は二発分。銃口にサイレンサーを装着したワルサーの安全装置セイフティを解除しても、美夜の指はすぐにはトリガーを引けなかった。


手の震えが止まらない。照準を定めた先にいる愁の顔が涙で滲んでもう見えない。この涙もこの指も、この世界も、今すぐ凍りついてしまえばいい。


 愁を睨み付けていた銃口を一旦地面に向ける。陸の白と天の青を交互に見つめた彼女は、白い吐息の深呼吸を繰り返した。


 今日が来なければよかった。永遠に、二人だけの真夜中の楽園に堕ち続けていたかった。


 どうして朝は来てしまうの?

 どうして月は欠けてしまうの?

 どうして空はこんなに青いの?

 どうして雪はこんなに白いの?


 馬鹿馬鹿しい自問自答の最後の問題。

 どうして二人は刑事と犯罪者なの?


『……美夜』


 甘い囁きが心を躍らす。滲む視界の中心で愛しい男が穏やかに微笑んでいた。彼の笑顔が彼女の躊躇ためらいを消す、最後の引き金だった。


 美夜は再度、背筋を伸ばして構えの姿勢をとった。銃の照準はベンチの側に立つ愁に向いている。

頬を通過する涙の筋を拭っても、拭っても、制御できない大粒の雫が瞳の奥から噴き出してくる。


 涙の制御を諦めた美夜は泣きながら、愁に微笑みを返した。

笑顔の愛撫と同時に美夜が放った銃弾は愁の腹部に命中し、彼の身体から滴り落ちる鮮やかな血が雪華せっかの花園に一輪、くれないの花を咲かせた。


『……撃たれるって……痛いんだな……』

「喋らないで。体力消耗しちゃう……」


 崩れ落ちる愁に駆け寄り、ふらつく身体を支えてベンチに座らせた。彼が着ているコートもセーターもジーンズも、みるみる真っ赤に染まっていき、愁の血の海に美夜の涙が着地して交ざり合った。


マフラーを患部に押し当て圧迫止血を施す美夜の手に、血で汚れた愁の手が重なる。


『……止血して……どうする……』

「だって……嫌……やっぱり……」

『……泣くなよ。……美夜。……こっち見ろ……』


 泣きじゃくる美夜の唇に強引に重なった愁の唇。キスの行為で余計に呼吸は荒く乱れ、卑猥な音を奏でる唾液の交換も唇と舌の接触も、激しくなる一方だった。

交わした数だけ傷の痛みも増すのに、愁はキスを止めない。


『嫌なのは……俺が……死ぬこと……?』


情欲に濡れた唇を結んで彼女は頷いた。苦笑いの愁が美夜の身体を抱き寄せる。


『馬鹿だな……ほんと……』

「うん。馬鹿だよね……」


 血染めの手袋を脱ぎ捨てた美夜の左手薬指には、愁に贈られた鈴蘭の指輪が太陽の光を浴びて輝いている。

彼女は愁の左手首に手錠の輪を嵌めた。手錠の反対の輪は美夜の右手首と繋がった。


愁と繋がる罪の鎖は警察官と女の狭間。

どこにも行かない。どこにも行けない。


『……お前は……苦しまずに……先に逝って……待ってろ……』


 愁の手元に戻ってきた愛銃ワルサーは最後の一発をその身に宿している。これは二人で選んだラストシーン。


『向こうに……先に逝っても……俺を待ってる間に……浮気するなよ……』

「どうしようかな。愁よりいい男いるかもね」

『……その浮気相手……殺すか……』

「独占欲強いなぁ。心配しなくてもちゃんと待ってる」


 今、彼女は心から幸せを感じて笑えている。

両親の愛が希薄な家庭環境。

“松本美夜”の人生を奪い続ける幼なじみの佳苗。

佳苗を殺したかった松本美夜。

見殺しにした松本美夜。


 こんな自分にも多くの人が側にいてくれた。

祖母や猫のちゃちゃ丸がいてくれた。

気の置けない友人達もいてくれた。

優しくしてくれる馴染みの店のシェフとバリスタの夫妻がいてくれた。

心配してくれる上司や同僚がいてくれた。

信頼できる唯一無二の相棒がいてくれた。


だけど愛を注いでくれる人に、同じだけの愛を注げない自分が、美夜は嫌いだった。

愛されることを怖がって愛することを拒絶した。


 木崎愁は“松本美夜”も“神田美夜”も受け入れてくれた人。

彼女が初めて愛した、たったひとりの男。


ただゆるされたかっただけなんだ。

この世に存在していることも人を殺したいと思った感情も、愛してはいけない人を愛したことも、赦されたかっただけなんだ。


 トリガーに添えた愁の右指が優しく動いた刹那、木々に降り積もった雪が片翼かたよくの羽根のように、はらり、ひらり、舞い落ちる。

空っぽになった拳銃は、ベンチに肩を並べた動かない男と女に寄り添って、赤く染めた黒い身体を銀白色の海に沈めた。


 静謐せいひつな風が孔雀青の水面を揺らす。

木々から舞い降りた片翼の羽根は罪の赤を隠すこの世の白。


 ──殺してくれて……ありがとう。



Act4.END

→エピローグに続く

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