エピローグ
エピローグ
2019年1月下旬。底冷えする寒さの今日の東京は朝から雪がちらついている。
警視庁本部から眺める見慣れた霞が関の風景も、右を見ても左を見ても上も下も、雪、雪、雪。
雪の情景が悲哀な記憶の一部になってしまうなんて、彼は思いもしなかった。
仮眠室のブラインドカーテンを閉じて雪景色を遮断した九条大河は簡易ベッドに寝転がった。そのまま、浅い眠りと鈍い目覚めを行ったり来たりの九条の耳に足音が届く。
廊下の足音がすぐそこで止み、ノックもなく入室してきたのは同期の南田康春だ。何度目かの鈍い目覚めが、九条の瞼を押し上げた。
『大田区の強盗殺人の捜査会議、15時からになった』
『……了解』
寝起きのかすれた声で返事をした九条を、簡易ベッドの側に立つ南田が見下ろしている。会議の時間を知らせに来ただけなら用はもう済んだはずだ。それなのに南田は仮眠室を立ち去らない。
『あと、お前に残念な知らせを持ってきてやった』
『何だよ』
『俺、4月から小山班に移動になる。代理じゃなく九条の正式なバディになってやってくれって、さっき一課長に頭下げられたんだ。お前としては不服かもしれないが……』
バディ決定を伝える南田の顔は無表情だった。喜んで笑うことでも怒ることでもない。
多分、この無表情は南田なりの配慮だ。
『南田で良かったよ』
『お前、本当に九条か?』
『南田とのバディなんか嫌だって言われたいわけ?』
『むしろそっちの方が九条らしい』
南田の無表情がわずかに崩れて、口をヘの字に曲げた彼は九条の真向かいの簡易ベッドに腰を降ろした。
確かに、と小声でひとりごちして九条は笑った。今までどうやって笑っていたのかも思い出せず、最近は口元がひきつった笑顔しかできなくなった。
『神田のことを全然知らない奴がバディになったら、俺は刑事を続けるのも無理だった。南田は神田の悪口なんか絶対言わねぇってわかってる。だから一課長もお前を選んだんだ。一課長の
美貌と秀才の女刑事が恋に狂って殺人犯と心中した──。
一部の警察関係者は、神田美夜をそう揶揄する。
捜査一課の刑事で美夜を非難する者はひとりもいないが、美夜の学歴や外見を以前から妬んでいた者達は、世間的な報道の裏側に敷かれた
九条大河はバディを失った可哀想な残り物として扱われた。誰も彼もが九条のメンタルや体調を気遣い、上野一課長にはしばらく休暇をとって実家にでも帰って休めとまで言われた。
けれど休めば余計なことを考えてしまうから。深く眠れば彼女が夢に出て来てしまうから。
捜査で忙しくしている方が気が紛れて楽だった。
『今日でちょうど1ヶ月か。あっという間だったな』
『失恋よりバディを失う方がキツいって初めて知った。頼むからお前は死ぬなよ』
『何があっても死なねぇよ。結婚式もあるし、死んでる暇もない』
『結婚式って……聞いてねぇぞっ』
『今初めてイイマシター。来月に籍入れる』
『うっわ……。まさかお前に先越されるとは……』
『バディなら俺の結婚を素直に喜べ』
警察学校時代からの旧友と呼ぶのは何か悔しいこの同期は、九条とほどよい距離感で接してくれる。
気を遣い過ぎず、冷たく突き放しもしない南田と交わす軽口が九条の心を穏やかにしていた。
周りに気を遣われる日々も正直辛かった。元気を出せと言われても、出せるならとっくに出している。
いつまで落ち込めばいい? いつまで泣けばいい?
大切な人を失った悲しみに終わりはないのに、どこかで悲しみに区切りをつけろと周りに急かされているようで、精一杯の
南田の視線がベッド下の九条の荷物に向いた。着替えや洗顔用品の類いが押し込められたカバンの上に、一冊の文庫本が無造作に横たわっている。
『それって神田さんの所持品にあった本?』
『ああ。神田の遺品は埼玉にいる
『虚しいなら未練がましく返して貰うな』
『南田の正論しか言わないところ、神田に似てる』
ベッドの下に手を伸ばし、横たわる文庫本を九条の大きな手が掴んだ。
小説のタイトルは【Midnight Eden】。
『神田さんはもっとお堅い系や純文学読んでるイメージあったから、エンタメミステリーは意外だった』
『この小説読んだことあるのか?』
『発売当時にシリーズ全部読んで、その後に放送されたドラマも観た。主役の女刑事は
九条は小説にざっと目を通しただけだ。
文庫本の裏に綴られたあらすじと一作目の内容からわかるのは、女刑事と因縁が深いテロリスト組織の対峙の物語であること、そしてテロリスト集団と関わりを持つ男と女刑事の禁断の恋もシリーズの主軸を担っている。
警察とテロ組織との攻防戦も刑事と犯罪者の禁断の恋も、いかにも大衆ドラマに好まれそうな題材だった。
『最後まであと30ページのところに栞が挟んであったんだ』
『小説のラスト30ページって一番気になる部分じゃん。ミステリーなら犯人追い詰めるパートに入る辺り』
『だよな。でも神田はあえて最後の30ページで読むのを止めたんじゃないか……って思う』
『何のために?』
何のために……と聞かれると上手く答えられない。ただ、美夜は小説の最後の30ページを読みたくなかった。
九条がわかるのはそれだけだ。
『最後、女刑事と男の恋はどうなった?』
『その一作目だとまだ女刑事は男の正体すら知らない。けど、男がテロリスト達を動かしてこれまでの事件を仕組んでいた黒幕だってわかって、女刑事は男を逮捕するんだ。……小説ではな』
『……そっか』
美夜が栞を挟んでいたページに九条は栞を挟み直し、彼は女刑事の物語を閉じた。
捜査会議の時刻が迫っている。背伸びをしながら立ち上がった九条は再びブラインドの隙間から外を覗いた。先ほどよりも雪の粒が大きくなっている。
街は一面の雪の華。
彼女の亡骸を埋めていた赤と白、ふたつを混ぜたら桜の色になる。
去年の春、共に桜を眺めた美夜はもういない。バディを組んだ最初の日、街角に咲いていた桜を見た彼女は、冷めた口調で春が嫌いだと言っていた。
彼女が嫌いな春は、まだ来ない。
~Midnight Eden~ ―END―
→あとがき に続く
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