4-28

 このまま甘い余韻に浸りたい衝動の奥で恐る恐る顔を覗かせた心の汚泥。

唇を重ね、性器を絡ませ、粘膜を擦り付け合ってもまだ美夜は、愁に一番奥をさらしていない。それは誰にも見せていない汚い場所。

死に物狂いで封じ込めた10年前の深淵が外に出ようともがいている。


「私の昔話、聞いてくれる?」

『真面目な昔話? 不真面目な昔話?』

「どちらかと言えば不真面目で怖い昔話』

『それは物騒だな』


 手繰り寄せた毛布を背中から被った美夜は愁の隣に腰を降ろした。二人して壁に背をつけ、見据える方向は先刻まで交わっていたくしゃくしゃになった布団の山だ。


「……殺したい女がいたの。同じ歳の、近所に住む幼なじみ。名前は佐倉佳苗」


忌々しい因縁の名を呟いた唇は震えている。


「佳苗の事件は九条くんから聞いたんだよね?」

『ああ。佳苗と援交してた男が俺が殺した明智だな』

「そう。10年前……2008年3月29日、埼玉で同じ日に二つの殺人事件が起きた」


 記憶の彼方に押しやった過去は忘れたくても忘れられない。あの女は今も記憶の彼方で色褪せずに、偉そうな顔で居座っている。


「佳苗は私の持ってるものを欲しがる女だった。初恋の人も友達も父親も祖父も、佳苗が奪っていった。私のこの顔も佳苗は欲しがった。だから私は佳苗が欲しがった自分の顔が嫌いなの」


 小学生時代に小遣いを溜めて買ったキラキラのラメペンのセット、祖父に買ってもらったテディベア。佳苗は美夜の持っているものを強く欲しがった。


友達も、唯一できた初恋の人も、佳苗に奪われてきた。

欲しがりな佳苗が絶対に手に入らないたったひとつのものが、美夜の顔だ。


 ──“神様って不公平よねー。あたしもあんたみたいな顔に産まれたかった”──


 他人から美人だと称賛されても、羨望の眼差しを浴びても、佳苗が欲しがったこの顔が美夜は大嫌いだった。


「今、自分がこんなことしてるのが信じられないけど、セックスも嫌ってた。高校の時、佳苗と祖父がしてるところ見ちゃったの。私に見られていると気付いた佳苗はわざと大きな声で喘いで……その光景が今もフラッシュバックして、セックスは汚いものだって、嫌悪してた」

『綺麗ではないな。身体の交わりなんか汚ねぇことしかしない』

「ほんと、綺麗ではないよね』


 全身から匂い立つ汗と唾液と精子の臭いをボディシートで拭いながら美夜は苦笑した。

畳に転がる愛液と精液にまみれたティッシュの残骸。体液の臭いを纏う素っ裸の男と女。

百円ショップのアルミの灰皿に積み上がる煙草の死骸。飲み干された酒の空き缶。


大学時代、友人の付き添いで吉祥寺の映画館に赴いて鑑賞したB級シネマのワンシーンに確かこんな光景があった。

自堕落の末路のような欲望の脱け殻が散乱するこの部屋には、綺麗なものはひとつもない。綺麗な人間もいなかった。


「10年前のあの日に明智が佳苗を殺さなければ、私が佳苗を殺していたんじゃないかって思う。私が佳苗を見つけた時はまだ息があったの。すぐに救急車を呼べば助かったかもしれない」


 美夜の話に無言で耳を傾ける愁は吸殻で埋め尽くされた灰皿に短い煙草を捨てた。煙草を手放した愁の手が美夜に伸び、彼女は彼の内側にいざなわれる。


「でも私は救急車を呼ばなかった。佳苗の身体が完全に動かなくなるまで……あの子が死ぬ瞬間を何もしないで見届けた」


美夜は愁の肩に小さな頭を預けた。目を閉じれば甦る10年前のあの瞬間。

佳苗の命の灯火が春の雨に打たれて消されていく、静かで穏やかな一瞬はやっと手に入れた美夜の楽園だ。


「佳苗の葬儀で皆泣いてた。佳苗の親も親戚も学校の教師や同級生も皆、佳苗が明智と援助交際してたって知ってるのに表では佳苗を悪く言わない。皆、“殺されて可哀想だね”って言うのよ。だけど佳苗の親がいない場所では、教師も同級生も援助交際して殺された佳苗をさげすむ発言をしていた。手のひら返しが露骨で、滑稽だったな」


 援助交際の末に殺害された被害者に対する世間の後ろ指は10年前も今も変わらない。

棺の前で彼らが流した涙は本音? 建前?


『明智が佳苗を殺す前日から俺は明智を見張ってた』

「夏木会長からの殺害命令は明智が佳苗を殺した後じゃなかったのね」

『夏木は金魚の糞の明智を鬱陶しがっていたからな。紫音の件もあっていつか俺に殺させるつもりだった。たまたま佳苗の殺害とタイミングが重なったんだ。女を殺してしまった、後始末をどうにかしてくれと、明智は夏木に泣きついた。夏木が自分を殺したがってるとは思わずにな。馬鹿馬鹿しくてわらえるだろ』


 偶然が重なった二つの殺人事件。

明智信彦の血を受け継ぐ息子が夏木伶だとは美夜は到底信じられない。伶の賢さは情けない父親を反面教師にして身につけた生きる戦術だろう。


『だから全部見てた。明智が佳苗を殺して逃げるところも、倒れた佳苗が携帯でお前を呼ぶところも』

「……私が現場に着いた時、陸橋の上にいた?」


 輪郭がぼやけて曖昧だった、陸橋の階段に立っていた黒い傘を差した人影。男か女か、若いのか年寄りかもわからなかったもうひとりの共犯者。

10年前の答え合わせは愁の微笑みを見れば充分だ。


 佳苗が明智に殺され、明智が愁に殺された日付は3月29日。仮に愁が28日に明智の殺害を実行していれば、佳苗は明智に殺されなかった。

美夜が殺さない限り、佳苗は10年後の今ものうのうと美夜の人生の邪魔をし続けていたかもしれない。


佳苗を殺した罪の共犯者は明智ではない。

本当の罪の共犯者は10年前からずっと、木崎愁だ。


 永遠の共犯者と永遠に似た何十回目の口付け。伏せたまぶたから溢れた雫が頬を流れて、どちらのものかわからない唾液と涙が、絡んだ二つの舌の上で煽情せんじょう的な音を立てて交ざり合った。


 しわくちゃの布団にうつ伏せになる美夜の身体に愁が覆い被さった。のし掛かる彼の体重に押さえ込まれた美夜はどこにも逃げられず、背後から刻まれる律動に反応して繰り返すオーガズムの果てのエクスタシー。


 窓の外は、片夕暮れの空が告げる楽園の終焉しゅうえん

荒っぽく吹雪ふぶいていた雪は情欲を発散させていた間に止んでいて、濡れた素肌を寄せ合って赤と白が彩る世界の終わりを二人で眺めた。


「今頃、晴れてきたね」

『明日の月は綺麗だろうな』

「満月が23日だから、明日は寝待月ねまちづきね。欠けずに満月のままで居てくれたらいいのに」


 これはそう、愛の殺人予告。

永遠の地獄に堕ちるなら、ふたりで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る