3-4
部屋の壁半分を支配する書棚には小説や参考書が詰め込まれている。
8ヶ月前に萌子と交わした会話の内容を目にする本の背表紙と共に思い起こす。読書家の萌子は本の話となると目の色を変え、口調も饒舌に変わっていた。
萌子の初めての相手が美夜の予想通りなら考えられる仮説はひとつ。仮説を裏付ける証拠はこの本棚の中にある。
「……あった。殺人衝動」
白手袋を嵌めた美夜の手がその分厚い本を引き抜いた。
本のタイトルは
本の中間部のページにしおりが挟まっている。桜の花びらを押し花にした手作りのしおりは萌子が失った人としての優しい部分。
この栞を手作りした時、萌子はまだ人の温かさや優しさを心に置いていた。そんな気がする。
〈殺人衝動〉を鑑識係に手渡した。この本から陣内の指紋が検出できれば本の元の所有者は陣内だったと証明できる。
8ヶ月前、陣内の蔵書にはなかった〈殺人衝動〉の行方を美夜は気にしていた。最近は陣内から本を借りたかと萌子に尋ねても、あの時の萌子は「いいえ」とかぶりを振ったが、あれは陣内との秘密の関係を隠す嘘だ。
「萌子と陣内がそういう関係かもって当時から思っていたの。でもそれが証明できても、今となっては何の意味も持たないね」
『そんなことはないだろ。萌子と陣内が繋がっていたなら、陣内は萌子に殺人を依頼された可能性が出てくる。結果は同じでも殺人
陣内の刑は確定している。もしも最後の殺人が殺人教唆での実行でも、陣内自身の殺人衝動に萌子が火をつけたに過ぎない。
美夜達は勉強机の引き出しやチェストを探った。二人の探し物は萌子のスマートフォン。
殺害された萌子の所持品にはスマホがなかった。現場付近からもスマホは見つかっていない。
萌子は財布や交通系ICカードは所持して出掛けていた。有り得ない話ではあるが、スマホだけ家に忘れた可能性もある。
けれど初めから期待していなかった美夜達の読み通り、萌子の部屋に彼女のスマートフォンは忘れられていなかった。
サラリーマン連続殺人の犯人、西村光のスマホを持ち去った理由を愁は自分との繋がりを辿れなくするためだと述べた。萌子のスマホを持ち去った犯人も理由は同様であろう。
萌子を殺した人間は誰か。人に嫌われやすい性格だった彼女が殺意を向けられるほど密接な関わりを持つ人物は捜査線上に浮上してこない。
少年鑑別所で法の監視下に置かれている勇喜も犯人ではない。
後妻の殺人事件から1年経たぬ間に娘が殺され、すっかり老け込んだ白髪混じりの髪をした萌子の父に見送られて美夜と九条は紺野家を後にする。
『大丈夫か?』
「何が?」
『萌子の裏にはどうしても陣内の影がちらつく。あの時に陣内に言われたことまだ気にしてるんじゃないか?』
8ヶ月前の紺野家からの帰り道は確か雨が降っていた。嫌いな春の雨とは違い、今日は穏やかな冬の晴天が気持ちいい。
陣内に囁かれた魔の言葉は薄気味悪く身体を這い、美夜の心に、にゅるりと侵入を試みた。どんなに追い払っても魔の底から怪物は這い上がって彼女に囁く。
──“あなたは刑事らしくない。どうしてそちら側にいるんですか?”──
深淵の怪物は今でもじっとこちらを見つめている。
そちら側は
そちら側は正しいかい?
怪物の問いかけを無言でやり過ごす彼女は答えを探してもがき続けていた。
「今でも私って刑事らしくない?」
『刑事らしくはない。けど前に比べたら、人間らしくはなったと思う』
「人間じゃないなら今まで何だったのよ?」
『火星人?』
冗談を言う九条をねめつけ、それぞれ助手席と運転席に乗り込んだ。
車が滑らかに駐車場を滑り出した矢先、美夜のスマホに連絡が入る。電話の相手は小山真紀だ。
「……え? ……はい、わかりました。……はい」
運転席にいる九条を一瞥して美夜はスマホの通話モードをスピーカー設定にした。スピーカーへの切り替えは真紀の指示だ。
{……九条くんも聞こえる?}
スピーカーモードのスマホから真紀の声が聞こえる。ハンドルを握る九条はよく通る声でスマホに向けて返事をした。
『聞こえてまーす。主任どうしました?』
{紺野萌子殺しの捜査は一旦、別の班に預ける。君と神田さんはすぐに三田駅方面に向かって}
『三田駅?』
{三田駅の近くの女子校で12時頃、発砲と立てこもり事件が発生した。現時点でわかってる情報を伝えるね。犯人は男女合わせて複数人、発生場所は港区芝四丁目の紅椿学院高校}
メモの準備をしていた美夜の動きが止まった。運転中の九条も目を見開き、横目で美夜と九条の視線が絡む。
紅椿学院高校……あの学校には美夜と顔見知りの少女が二人在学している。夏木舞と大橋雪枝だ。
舞と面識のない九条はおそらく、雪枝の顔を思い浮かべているだろう。
{紅椿学院には夏木コーポレーション会長の娘の夏木舞が通っている。犯人グループの要求は夏木十蔵が犯した過去の罪の謝罪らしい。舞を人質にした動画が配信サイトから生徒のSNSを使って拡散されてる。動画は神田さんのタブレットにメールで送ったから}
確認するとタブレットの上部にメールマークが表示されていた。開いたメールに添付されていたのは動画に繋がるURLだ。
美夜達はまだ豊島区を脱出していない。道路脇に設置されたパーキングメーターの白線に九条は車を停車させた。
彼が駐車料金の支払い手続きをしている間、美夜は真紀と通話をしながら動画視聴の準備を行う。
動画はアカウントを取得すれば誰でも投稿、閲覧が可能な無料の動画配信サービスに投稿されている。投稿時間は今から10分前。
動画の再生数はどんどん上がっている。先ほど見たときは、三〇五回だった再生回数が次に見た時には五三七回になっていた。
動画は生徒のSNSから拡散されているとの話だが、いまだ事態が飲み込めない。
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