2-9

 最低な男は最低に優しく彼女に迫る。雨の匂いを含んだ服を互いに剥がして、愁と美夜が導かれた先はバスルーム。


 愁の唇が、指先が、美夜の全身を駆け巡る。これが最後だからと互いの肌にぬくもりを埋め、水滴で濡れた白肌に刻んだ赤い刻印はどこまでも増え続けた。


 二つの乳房の隙間を這って愁の唇が下降する。軽々と持ち上げた美夜の片脚を彼は浴槽の縁に下ろした。

明るい浴室で卑猥な体勢をさせられた恥じらいで美夜は脚を閉じようともがいているが開いた太ももは愁の腕でホールドされ、片脚だけで立つ彼女の細い腰を愁は掴んで離さない。


 湿った茂みの奥に真っ赤な実が熟している。実の周りを舌先で焦らしながら、蜜を溢れさせるそこをなぞるだけで美夜は快感の波に身体を震わせていた。


 制御しきれないエクスタシーに戸惑う彼女に愁は優しく欲の解放を促した。愁が美夜を愛する水音と美夜から漏れる甘い声が反響し、互いが立てる物音が互いの理性を破壊する。


美夜の理性は愁の愛に壊され続け、彼女はただの女になった。


        *


 半分の位置まで湯を張った浴槽は二人で入るには狭すぎる。浴槽の中で窮屈に折り曲げた脚の間に愁は美夜を閉じ込めた。


 ラベンダーの発泡入浴剤がシュワシュワと音を立てて少しずつ小さくなり、人肌の温度が気持ちのいい湯船は次第に透き通った綺麗な紫色に変化した。


 美夜の肌に触れていた唇が湿り気を帯びている。口内も女の蜜の味が充満していた。

あれだけ激しく愛撫をしても抱かなかったのは初めてだ。下半身に残留する放出できなかった情念が、何故? と彼を問い詰めてくる。


抱かなかったのは抱けなかったから。妊娠の恐怖に怯える美夜をまた不安の底に落としたくなかった。


『舞に雨宮の話をした。奴が伯父だと知ってパニックになってたよ』

「無理もないよね。私も雨宮のしたことを聞かされて吐き気がしたもの」


 膝を抱えて身体を湯に沈める美夜のしなやかな背中にも愁が刻み付けたキスマークがくっきり浮かんでいる。こうして見るとそれは薔薇の花弁に似ていた。


『だけど舞がもっとパニックになったのは俺との本当の関係を知った時だった』

「本当の関係?」

『俺の父親も夏木十蔵だからな。舞は母親違いの俺の妹』


美夜が顔だけを後ろに向けた。かすかに開いた小さな口が声を出さずに何か呟いている。

声のない美夜の呟きは「だから……」かもしれない、「なるほど……」だったかもしれない。

どちらにしろ彼女の表情に驚きは見えなかった。


「あなたが舞ちゃんを大切にしている理由がやっとわかった。妹だから一生恋愛対象にならないのも納得」

『舞には申し訳なかったと思ってる。もっと早く俺が兄だと話していれば、舞は年相応の健全な恋愛ができたかもしれない』


 鼻先で触れた美夜のうなじは雨ではなくシャンプーの薫りに変わっていた。揃って洗った愁の髪も同じ薫りを放っている。


『舞にも伶にも話していない俺の昔話、聞いてくれる?』

「話の長さは逆上のぼせない程度にお願いね?」

『了解』


引き寄せた彼女の細い肩に顎を乗せる。紫に染まる湯船の中で美夜と絡めた指が、海を揺らぐサンゴに見えた。


『俺が最初に殺した相手は自分の母親だ。母親を殺すことがジョーカーとしての最初の仕事だった。大学二年の夏の話』

「殺しの命令をしたのは夏木十蔵?」

『ああ。伶と舞の母親……紫音を自殺に追い込んだのが俺の母なんだ。夏木が誰よりも大切にしていたのは妻でも愛人でも子どもでもなく、雨宮紫音だからな。元凶が自分のくせに夏木は俺に母親の始末を命じた。12年前の俺は父親に逆らうすべを知らないガキだったんだ』


 忘れられない二十歳の夏。今となっては冷笑してしまう笑い話だが、あの頃の木崎愁は権力の象徴である父に見捨てられることを本気で恐れていた。

父に母を殺せと命じられた。

それが忠誠心と信じて疑わなかった未熟な青年は、だから殺すしかなかった。


 夏木十蔵と彼の妻、夏木朋子によって仕組まれた愁の初めての殺人は鎌倉の夏木家別宅で実行される。

朋子の招待で夏の鎌倉に招かれた木崎凛子と愁の親子。朋子が酒に仕込んだ睡眠薬が効いて凛子は客室で深く眠り込んでいた。


 眠る母の喉元に愁はナイフを突き刺した。顔に飛び散る返り血にも構わず、二十歳の愁は何度も何度も母の身体にナイフを突き立てた。


身体を切り裂かれて血に染まってゆく母を見ても悲しみや怒りは感じない。生まれてこのかた、母親の愛に包まれた記憶を持たない愁は凛子を殺しても一滴の涙も流れなかった。


 愁が凛子を殺す様子を終始、開いた扉から朋子が見ていた。朋子との男女の関係は美夜には伏せたが、母親の亡骸の側で殺人を終えたばかりの愁は朋子を抱いた。


 初めての殺人。血まみれの母。その隣で勝ち誇った顔で愁を貪る朋子。

おぞましい二十歳の夏は忘れたくても忘れられない。愁の過去は血と死体とメスの臭気にまみれている。


「お母さんの遺体は……」

『夏木家の別宅の庭に埋めた。死体は見つからずに失踪宣告の7年が過ぎて母親は法律上でも完全に死んだ人間になってる』

「別宅の庭に死体が埋まってると知るのはあなたと夏木会長だけ?」

『別宅には会長の正妻が住んでる。正妻も共犯だ。どういう神経してるんだか、愛人の死体が埋まってる庭を見て今年も庭の百日紅サルスベリが綺麗に咲いたと言いやがる狂った女だよ』


凛子の殺害は夏木十蔵と朋子の利害の一致。不要になった愛人の始末を息子にさせた夏木十蔵と、愛人が産んだ息子に肉体関係を迫る朋子は頭が狂っている点で似合いの夫婦だろう。


『俺の母親は息子の立場から見ても救いようのない女だ。上流階級に憧れた金の臭いに敏感な男好き。俺が高校に入った頃には夏木コーポレーションの金を違法に持ち出してホスト遊びに使い込んでいた。最悪な人間だろ?』

「事件の関係者でそういう女は山ほど見てきた。恨みを買いやすい人間よね」

『だから夏木と正妻が排除したがるのも無理もねぇんだ。紫音の自殺がなかったとしても、夏木はいつか俺にあの女を殺させていた』


 夏木家は元は呉服屋の家業だった。夏木十蔵の父、夏木平八郎へいはちろうは二十九歳で実家の呉服屋を弟に譲り、不動産業に進出。

夏木不動産は不動産業界のトップに上り詰め、鬼才きさいの平八郎は戦後の不動産王と呼ばれた。


1980年に社名を夏木不動産から夏木コーポレーションに改名した平八郎はホテル経営に着手。息子の十蔵をホテル事業のリーダーに据えた。


 愁の母、木崎凛子は高校卒業後に夏木コーポレーション傘下のシティホテルのラウンジでウエイトレスをしていた。ホテル経営の舵取りを任されていた十蔵と凛子が出会ったのはこの頃だ。


既に十蔵は資産家令嬢の朋子と結婚しており、凛子は十蔵が既婚者だと承知で彼に近付いた。

好色な十蔵は年若い凛子の誘惑を拒みもせず、二人は不倫の仲となる。


 不倫関係から3年後の1986年6月13日、凛子は十蔵の息子、愁を出産した。木崎凛子は二十三歳、夏木十蔵は三十二歳だった。

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