2-10

 愁が生まれた2年後、今度は妻の朋子が妊娠した。夏木家には愁以外に夏木十蔵の血を受け継ぐ子どもがいなかったが、戸籍上は愁は夏木十蔵の息子ではない。


『俺は血筋では夏木十蔵の息子でも、法律では夏木の財産を継ぐ権利はない。俺が産まれた2年後に夏木の妻が妊娠して俺の母親は焦ったんだ。正妻の子どもが生まれたら文句なしにそいつが夏木家の跡取りだからな』

「まさかとは思うけど、お母さんが夏木会長の奥さんに何かしたの?」


 こんな話をしていても愁は湯船から覗く美夜の滑らかな肌に口付けを落とす。優しい女は身体に絡み付く愁の腕を振りほどかずに彼に身を預けていた。


『そのまさか。後になって夏木の妻から聞かされた話だから向こうの主観と私情が混ざってはいるだろうが、事実として俺の母親は妊娠中の夏木の妻を階段から突き落とした。妻は命は助かったけどそれが原因で流産。最初に人殺しをしたのは俺の母親だ』


 凛子は夏木家の跡取りは愁だと豪語していた。

朋子が、凛子の息子である愁の身体を我が物顔でもてあそぶのは、子どもを殺した凛子への最大の復讐。


純白の百日紅サルスベリは夏の雪。鎌倉の別邸に凛子の死体を埋めた熱帯夜のあの日も庭のサルスベリは満開だった。


『人を刺し殺したのは母親が最初で最後。その後に語学留学の名目でアメリカに行かされて射撃を仕込まれた』


 夏木十蔵が本格的に愁を殺人マシーンに仕立てあげようと画策した2007年の3月。ニューヨークで愁が引き合わされた人物があの犯罪組織カオスのキング、貴嶋佑聖だ。


愁に殺しの知識と技術の教育を施したのは他ならぬ貴嶋だった。当時から夏木十蔵のビジネスパートナーであった貴嶋の誘いを受けて帰国後に愁はカオスの仕事に関わるようになる。


『俺は夏木にとって邪魔な人間を殺す兵隊になった。夏木十蔵のくだらねぇ野望のために産み出された殺人兵器が俺だ』

「夏木会長の野望って何?」

『世界征服』


 こちらを向いた美夜は眉間にシワを寄せていた。その表情は明らかに呆れている。彼女が呆れるのも無理からぬこと。


「真面目に答えて」

『一応、これが真面目な回答。犯罪組織カオスよりも最上位の犯罪組織を作ってこの国を支配する……くだらねぇだろ』

「本当にそれが夏木十蔵の野望なら確かにくだらない。キングは死刑判決を受けてカオスもとっくに壊滅してるのよ?」

『夏木はカオスのキングが先代の頃からあの組織と付き合いがあったんだ。ジジィはいつまでも犯罪組織カオスとその頂点に君臨するキングに囚われてる。そんなもの最初からどこにもない幻想なのに』


 浴槽内で窮屈に身体を反転させた美夜を膝の上に乗せる。向かい合う形で密着した二人の身体は肌にじんわりと汗を浮き上がらせて火照っていた。


『皮肉にも俺を“ジョーカー”と名付けたのはカオスのキングだった。キングはカオスに取って変わりたい夏木の野望をわかっていながら、俺に殺人のイロハを教え込んだ。“切り札”なんて名前を付けてキングもどういうつもりだったか、もうあの人に聞けねぇんだな』


 ちゃぷりと音を立てて揺れたラベンダーの湯はかなりぬるい。愁が昔話を語る間に湯船の温度も下がってしまった。


 外はまだ冷たい雨が降り続いているだろうか。ラベンダーの薫りに包まれた二人だけの秘密の世界をあと少し堪能したい。

額にかかる濡れ髪を無造作に掻き上げた愁は、視線を上げて美夜を見つめる。


『長話になったな。逆上のぼせてない?』

「お湯がぬるめだから平気」


背中に両手を回して抱き着いてきた彼女の心境はわからない。楽しい話ではない愁の昔話を聞き終えた美夜は今、何を思う?


『今夜泊まっていいか? 何もしないから。一緒に寝るだけ』

「男の人の“何もしない”は信じられないって友達が言っていたけど本当ね。信じられない」

『俺は信用ねぇな』

「嘘つきなんだから当たり前でしょ」


 抱き合う二人の視線が上下で絡んだ。愁に跨がる美夜の目線が必然的にわずかに上になり、美夜を上にした状態で交わすキスは新鮮だった。


 今夜が美夜と過ごす最後の夜。中途半端に煽られた欲情がこのまま彼女を抱きたいと叫んでいる。

女の身体が欲しいのではない。美夜が欲しい。

欲しくて、愛しくて、壊したくて、恋しさに気が狂いそうだ。


 舌を絡めたキスの後に彼は美夜の乳房に顔を埋める。形の良い丸い乳房や谷間には先ほど愁が刻みつけた薔薇の花弁が点々としていた。

花弁をひとつひとつ丁寧に舐めながら、目の前の柔らかな胸の感触を手と唇を同時に動かして存分に味わう。


「待って。何もしないって言ったのに……」

『あれは中にれないって意味』


愁の愛撫から逃れようと必死な美夜を捕まえて、硬く立ち上がった胸の突起に吸い付いた。ついばむように紅色の突起を貪ると、瞬時に甘くなる彼女の吐息が愁の頭上をふわりと揺蕩たゆたう。


「あっ……もう……。やっぱり……嘘つき」

『悪いな。俺もそろそろ我慢の限界だ』


 激しく揺れ動いた水面は立ち上がった彼らが動くたびに波打った。壁に押し付けた美夜とキスを交わしながら愁は片手に握った自分の分身を上下にさする。


今にも破裂しそうな大きさに肥大した愁の分身に美夜の指先が恐る恐る触れた。奇妙な生物を眺める目付きで愁の下半身を見下ろす彼女は、分身を手のひらで包み込んだ。


「初めて触ったけど生き物みたい。こういう生物、深海にいそう……」

『男の股についてる物だから正真正銘の生き物だぞ。たまに天然発言するよな。そのまま持ってて』


 美夜に触れられただけで下半身がわかりやすく反応を見せる。まったく、遅れてやってきた思春期に愁自身が参っていた。


 美夜の手の上から愁は自身の手を添え、刺激を与えられた分身はものの数秒で限界を越えた。


射精の間際に美夜を抱き寄せ、彼女の耳元で甘くうめく。他の女を抱いた時には感じない感情が心の底からじゅわりと溢れ出て、無我夢中に奪った赤い唇は愁を優しく迎え入れた。


 愁と美夜の隙間を通って湯船に落ちていく白濁の体液はどこにも辿り着けなかった恋の残骸。

二人の足元を浸す濁った紫の水面みなもに命のない精子が海月クラゲのように浮遊していた。

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