2-8

 小雨が散る肌寒い夜だった。傘も差さずに赤レンガのマンションの前に佇む木崎愁はガラス扉を押し開け、エントランスに侵入する。

オートロックの呼び出しボタンで彼女の部屋番号を押しても応答はない。


 まだ帰宅していないようだ。踵を返して雨の街に舞い戻る彼の足音は後ろ髪を引かれている。

行き付けのイタリア料理店、ムゲットがある坂道に抜け出す曲がり角で赤い傘と出くわした。鬼灯ほおずきの実と同じ赤色の傘の下に、無表情な神田美夜が立っていた。


「……びっくりした」

『そのわりには驚いてないな』


美夜の持つ赤い傘を取り上げて彼女の側に潜り込む。こちらを見上げて何か言いたげな彼女の額に愁は唇を寄せた。


「……いつからそんなに甘い男になったのよ?」

『生まれた時から』

「嘘つき」


 額のキスにさえ頬を染める美夜を傘で覆った。うつむく彼女の歩みに合わせて再び辿り着いたレンガ造りのマンションの内側に彼は侵入を許可された。


 美夜の自宅は三◯三号室。部屋に入ってすぐ、玄関の鍵をかける彼女を背後から抱き締める。

艶のある黒髪に鼻先を沈めると、彼女からは雨の薫りがした。


『さっきお前の相棒に呼び出されて会ってきた』

「九条くんと? 何を話したの?」

『世間話と……宣戦布告?』

「宣戦布告?」


 玄関の扉を背にして振り向いた美夜の唇に噛み付くようなキスをした。暗がりの玄関では互いの表情もまともに見えない。

唇の接触だけで感じ合う心。触れた唇同士をスライドさせ、たまに甘く噛みついて、戸惑う彼女自身を夢中で貪った。


軽めのリップ音を響かせてふたつの唇が離れる。力が抜けてふらつく美夜の身体は愁の胸元に着地した。


『人殺しに同僚刑事。絵に描いたような三角関係で大変だな』

「他人事みたいに言わないでよ。誰のせいで人が頭を悩ませていると思うの?」


 愁の腕の中で美夜は乱れた呼吸を整えている。雨の匂いが充満する玄関に立ち尽くす男と女は抱き合いながら、秘密の囁きを繰り返す。


「あなたがジョーカー?」

『九条もジョーカーを知っていた。お前らはどこまで掴んだ?』

「私が知ってるジョーカーの情報は捜査会議で組対の刑事が話してくれたことだけ。ジョーカーは夏木十蔵専属の殺し屋だと聞いてる。……ジョーカーはあなたでしょう?」

『警察も馬鹿じゃねぇな。俺がジョーカーだとして、美夜が選択できる答えは三つだ』

「三つ?」


 ロングコートのポケットから愁が取り出したのはコートと同じ色をした黒い塊。


『俺を逮捕する、逮捕しないなら俺に殺される。三つ目は、殺されるのが嫌なら俺を殺せ』


 愁が放り投げた黒い塊の正体は拳銃だ。硬い音を響かせてフローリングを滑る銃が玄関と居室を隔てる扉に勢いよく衝突した。


銃の行方を目で追っていた美夜は腰を屈めて床に転がる黒い塊に片手を伸ばす。銃を手に取りしばらく表面を眺めていた彼女はその銃口を愁に向けた。


「この銃、偽物ね」

『どうかな』

「馬鹿にしないで。モデルガンと本物の銃の違いくらいわかる。本物ならコートのポケットなんて危うい場所に仕舞ったりしないし、乱暴に床に放りもしない。こんなイタズラで私をからかって楽しい?」


美夜の言う通りそれはターゲットの脅しに使うだけのモデルガン。やはり刑事の目は誤魔化せない。元々これしきのことで美夜が動揺するとも思っていなかった。


『お前の覚悟が知りたかったんだよ。俺を殺せるかどうか』

「これが本物なら殺していたかもね。今、最悪に腹が立ってる。コーヒーでいいなら出すから、部屋入ってて。あとコート貸して。干しておく」


 雨に濡れた黒いコートは美夜に渡り、玄関と続き間のキッチンの床には美夜が手放したモデルガンがひっそりと眠る。


 二度目に訪れた美夜の部屋は前と変わらず、彼女の几帳面な性格に似て整理整頓されていた。

ベッドのサイドボードにはまだあの夜に愁が置き去りにした煙草が横たわっている。とうに期限を過ぎて吸えなくなった煙草と視線で再会の挨拶を交わして彼はソファーに腰を降ろした。


 美夜が淹れてくれたホットコーヒーをブラックのまま一口すする。このコーヒーの味はどこかで飲んだ記憶がある。


『ムゲットのコーヒーの味に似てる』

「園美さんに店で使ってる豆を教えてもらって、美味しい淹れ方も聞いたの。さすがにバリスタの技術には及ばないけどね」

『最近ムゲットに行ってないな』

「私も先月の初めに行ったきり。それからはなんとなく……行き辛くて」


美夜がムゲットに行き辛い理由には見当がつく。ムゲットのオーナー夫妻は愁の裏の顔を知らない。

愁と違い、美夜は嘘が苦手な女だ。愁が人殺しだと知らない彼らの前でどう振る舞えばいいかわからないのだろう。


「まず聞きたいのは、いつ、どこで私が刑事と知ったの?」

『西村光、覚えてるか? サラリーマンを去勢して殺した高校生。お前が担当した事件だろ?』


 二人掛けのソファーで触れ合う美夜の肩が身動いだ。飲みかけのコーヒーをテーブルに置いた彼女の顔に怒りの気配を感じる。


「あの子を支援していたのがあなたなの?」

『支援って言い方が合ってるかわからねぇが、色々と手助けはしてやった。光が自殺する直前にお前の名刺を貰ったんだ』

「これまで不可解だった出来事がやっと繋がった。じゃあ光のスマホを持ち去ったのも?」

『それは俺との繋がりを辿れなくするため』


隣で聞こえた大きな溜息は処理しきれない感情の叫び。複雑な謎も明かしてみれば案外単純な仕掛けだ。

愁が美夜の素性を知るに至った経緯は偶然の悪戯いたずらでしかない。


「光が事件を起こしたのは6月よね。その時から刑事と知っていたくせに、どうして私に近付いたの? ハニートラップでも仕掛けて利用できると思った?」

『最初はそうだったかもしれない』

「その煮え切らない言い方が益々腹立つ」

『だけど男に騙されて警察の機密を漏らすような女じゃないとすぐにわかった。お前は器用じゃない。器用な女なら迷わず俺を逮捕してる』


 腕に抱いた肩は震えていた。目尻に浮かぶ彼女の涙に舌で触れると今度は彼女の方から唇を重ねてくる。

表面をなぞるだけのキスの後に紡がれた言葉は何度目かの彼女の糾弾。


「ずるいよね。愁は全部がずるい」


 ずるいのはどちらだろう。

大粒の涙を流す神田美夜は綺麗だった。桃色に蒸気する頬も、濡れた真っ赤な唇も、潤んだ漆黒の瞳も、彼女のすべてが愁を誘う。

彼女のすべてが欲しくなる。


愛して、愛して、壊れるまで愛したい。


「もう……会いに来ないで。これ以上一緒にいれば二人とも苦しくなる。二度と会わない、連絡もしない」

『わかってる。今夜が最後だ』


 美夜の涙と呼応するようならずの雨が窓に打ち付ける。先ほどまで小降りだった雨はだんだん強く、どこにも辿り着けない二人の恋に天の女神も泣いていた。


空も涙。心も、涙。

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