2-7

 二人の男の宣戦布告。九条と愁の視線が鋭く絡んだ。


『避妊もせずにやるだけやってその後の連絡をシカトしていた男が、女に本気だとは思えない』

『相棒のプライベートにずいぶん踏み込むんですね。彼女も俺が連絡を無視した理由は理解しています』


 九条の愁に対する尋問はバディの立場を越えた行為かもしれない。この件を美夜が知ればお節介や余計なお世話だとののしられるだろう。


美夜にはいつもみたいに勝ち気に皮肉を言われた方がマシだ。弱々しい美夜を見ていると感情が制御できなくなる。

バディの一線を越えてしまいそうになる。


『本気なら不安にさせて泣かせるなよ。アイツの悲しんでる顔は俺が見たくない』

『惚れてますね』

『ああ、惚れてるよ。でも俺じゃダメなんだ。それは充分わかってる。だけどこのままあんたと関わり続ければ神田は刑事でいられなくなる。俺は大事なバディを失いたくない』

『要件はわかりました。一応、心に留めておきますよ』


 携帯灰皿に煙草を捨て去った愁は、九条が腰掛ける出世の階段の右横を一瞥した。出世の階段が急勾配で真っ直ぐな男坂に対し、右横の女坂は傾斜も緩やかで階段も途中でカーブしている。


愁は口元を斜めにして笑った。長身の影はゆらりと揺れて九条に背を向ける。

九条はその背に向けて最後に問いかけた。


『なぁ、ジョーカーって一体何なんだ?』

『……トロイの木馬』

『は?』

『ギリシャ神話のトロイア戦争の話ですよ。帝国を崩壊させるために仕込まれたトロイの木馬、それがジョーカー……かもしれませんね』


 急に話題に挙がったギリシャ神話やトロイア戦争の知識が九条にはすぐに思い出せない。元々ギリシャ神話には明るくなく、九条がトロイの木馬と聞いて浮かぶのはトロイア戦争ではなくコンピューターウイルスだ。


 霧のような細かな雨が降り始めた。鳥居の向こうに小さく見えていた黒い服の男は傘も持たずに雨の街に消えていく。


『……主任、俺は上手くやれましたか?』


 九条が目を向けたのは女坂ではなく、女坂と隣のビルの敷地の狭間。茂みから姿を現した小山真紀がコートの布地についた枯れ葉を払ってこちらに這い出てくる。


「まずまずかな。途中、刑事じゃなくてただの九条大河になってたね」

『木崎がただの九条大河を引きり出してくるんですよ。相手にしていてどっと疲れました。何なんだアイツ……』


肩をすくめた九条の隣に真紀が腰掛けた。穏やかな霧雨きりさめはまだ地面を濡らすには至っていない。

朝に降っていた雨は日中は止んでいた。今は小降りな雨も夜が深くなる頃に雨脚が強まるそうだ。


『女からすると、ああいう危なそうな男にハマってしまう気持ちはわかりますか?』

「私は好みじゃないけど……そうねぇ。恋愛でも友情でも自分に近い人間か自分と遠い人間か、人が縁を感じるのはどちらかだもの。神田さんは自分に近い人間に縁を感じてしまったのよ」


 言われてみれば恋人も友人も属性が近い人間か属性が遠い人間か、選ぶのはどちらかだ。

属性が近くも遠くもない、どちらでもない人間とは言葉を交わす機会もないクラスメイトや同僚の関係で一生を終える。


「木崎愁は私の存在に気付いていた。私がいる側の狛犬に近付いた時には緊張したもの。階段を見るフリして私を見ていた。あれはかなり手強てごわいなぁ」

『関心してる場合ですか……。あそこに主任が隠れてるって木崎にバレバレだったんですよ?』


 ここに到着した愁は女坂側の狛犬を選んでそこにもたれていた。あの時の愁の位置では反対側の狛犬の方が距離としては近かった。


女坂に近い場所に潜むもうひとりの刑事の存在を承知で、愁はわざと女坂側の狛犬にポジションを定めたのだ。そのもうひとりの刑事が美夜ではないことも愁は見抜いている。


「普通の人間は見える位置に人がいなければ、ここにいるのは九条くんだけだと思い込む。他に人がいたとしても場所が神社なら参拝客だと思うでしょう。だけど私に向けられた木崎の視線は獲物を捕らえる目をしていた。こういう場面に慣れている証拠ね。……食べる?」


 真紀のコートのポケットからは煙草ではなく、個包装された一口サイズのチョコレートが出てきた。九条の手のひらに置かれた茶色い包装紙にくるまれたミルクチョコレートはとても甘い。


チョコを頬張る彼女は霧雨に顔を向けて唸っている。時折、彼女が口ずさむ鼻歌のメロディは数年前に放送された特撮ヒーローの主題歌だ。

九条の姪がヒーロー番組を夢中になって見ていた記憶がある。忘れがちだが、真紀は二人の子どもの母親だった。


『何を考えているんですか?』

「木崎が言っていたトロイの木馬がジョーカーの役割だとして、そんな厄介な爆弾を仕掛けた奴は誰かと思ってね。夏木十蔵が自分の帝国にトロイの木馬を仕掛けるわけがないし……」

『すみません、意味がちょっとわからないです。まずトロイの木馬がわかりません』

「私もギリシャ神話には詳しくないけどね。旦那が知識人だから色々と教えてくれるのよ。ネットで調べてみなさい」


 とりあえずトロイの木馬をスマホで検索する。トロイの木馬の元はトロイア戦争を終わらせる決め手となった巨大な木馬の話らしい。


「木崎のあの言い方だと夏木十蔵の帝国をいつか崩壊させるためのトロイの木馬をわざと仕掛けた人間がいる。私の予想ではそれはカオスのキングね」

『カオスのキングが? だけどキングは夏木十蔵のビジネスパートナーじゃないんですか?』

「キングがだからよ。あの極悪人はどこまで先を読んでいるのかしらねぇ」


 わかるようでわからない。

犯罪組織カオスのキングと夏木十蔵も、木崎愁と神田美夜も、それぞれの思惑と感情の糸が錯綜さくそうする。


 晩秋の空気に糸の雨が降り注ぎ、街が水気にぼやけていく。

何もかもが霧の中で募る想いの正体に気付いても、この淡い恋は心の霧に紛れて隠した。彼女の隣に居続けるために。

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