Act1.徒花恋歌

1-1

 形容しがたい精液の匂いが身体にまとわりついている。シャワーを浴びても石鹸の香りに包まれても、拭いきれない男の匂いが紅潮と蒼白の両方を引き連れて彼女を悩ませた。


 事後の腹部の痛みも肌に流された白濁の体液もとっくに消えているはずなのに、薄れていく身体中に刻まれた赤い花びらを見るたび抱かれた腕のぬくもりを思い出す。


 彼女が経験した真夜中の楽園は気持ちが悪くて気持ちが良い、羞恥でみだらでけがらわしい甘い幸福。

雄と雌に成り下がった男と女は互いの裸を晒して一晩中、相手を求めていた。


二十八年の人生で初めて彼女が抱かれた相手は、最低で自分勝手で優しく残酷な、破滅を呼ぶ男だった。


 彼を受け入れた彼女の心にはあの夜の直後からある不安が巣食っていた。たぶん、大丈夫。そう言い聞かせてもしばらくは不安な日々が続き、そのことを考えると夜も眠れない。


 眠れぬ日々に夜な夜な婦人科のホームページで膣外射精における妊娠の可能性を調べていた。調べた情報は彼女が成人女性の一般知識として備えていた情報ばかりで目新しい情報はひとつもない。


確信したのは、やはり性行為なんてするものではないということ。ましてや妊娠して困るような立場の男と……。


 霜月を迎えた最初の日曜の昼下がり。下半身の違和感を感じて駆け込んだ職場のトイレで目にした赤い血に彼女は初めて安堵を覚えた。


念のためサニタリーショーツに装着していた白い生理ナプキンは一面を真っ赤に染めていた。誕生日の夜に経験した性交痛と似た痛みが下腹部をきつく締め付けている。


 普段は忌々いまいましい経血けいけつが安心の証だなんて全くどうかしている。


 切らしていた生理痛の鎮痛剤と予備のナプキンを求めて薬局に立ち寄った彼女の頭によぎったのは避妊具の存在。たまたま入った薬局には生理用品の陳列棚と同じ場所に箱入りのコンドームも陳列してある。


「……馬鹿だな」


小さく呟いた独り言は己への愚弄ぐろう。避妊具をつけずに事に及んで生理の到来に安堵した自分を、彼女は馬鹿な女だと嘲笑った。


 あんなに軽蔑していた性の交わりを後先も考えずに行った結果、生まれたのは未来への不安。

身体の交わりのしわ寄せは必ず女に向かう。


望んでもいないのに女は生まれながらに皆、子宮を持っている。

生む予定のないかりそめの命のために準備をした一切合切が血液となって数日間流れ続ける月経期間は、誰もが女の性別を呪っているだろう。


 結婚も出産も望まない。相手があの男ならば普遍的な恋愛は望めない。

彼と彼女はどうしたって相入れない同士なのだから。


 コンドームを買う行為はまるでまた、彼が会いに来てくれることを期待しているようだ。避妊もしないあんな男に二度とほだされてなるものか。……二度と。


 パッケージに多い昼用と書かれた生理ナプキンを掴んだ彼女は物言わぬ避妊具に背を向けた。白を基調としたコンドームの外装は彼が彼女の自宅に置き去りにした煙草の箱と似ていて、その存在が余計に憎たらしい。


 恋も愛も、知りたくなかった──。


       *


11月12日(Mon)


 鎮痛剤の効果が薄れてきた途端に刺すような鋭い痛みが下腹部に走る。神田美夜は車のシートに深く背中を預けて、下半身を覆う厚手のブランケットの上から腹部をさすった。


 停車する車の傍らに立つ公園の木々は葉を赤や茶色に染めている。ひらひらと風に舞う葉を目で追っていると、フロントガラス越しに相棒の九条大河の姿が見えた。


『おーい、神田。生きてるか?』

「人をゾンビ扱いしないで。ちゃんと生きてます」

『顔色はゾンビだけどな。ほら、たい焼きとあったかいお茶。そこのスーパーで売ってた。これ食べて薬飲め』


 運転席から伸びた大きな手が茶色い紙袋とペットボトルを差し出した。まず紙袋を受けとるとほんのり温かい。

袋には二匹のたい焼きが仲良く収まっている。


「ありがとう。生理の時って普段は食べない甘い物が食べたくなるのよね」

『そういう人多いよな。ひとつは俺のだから』


 美夜の持つ袋からたい焼きを一匹掴み出した九条は甘い匂いを放つその物体を目の高さまで持ち上げてまじまじと眺めている。

美夜も袋からもう一匹のたい焼きを取り出した。


『たい焼きは頭から食べる派? しっぽ派?』

「どっちでもなく、袋から出した時の向きによる派」

『こだわらないのが神田らしいな』


九条は頭からかぶり付いていた。たまたま向きがしっぽだった美夜はこだわりなくしっぽ側からかじる。

三口目であんこに出会えた。つぶあんの優しい甘さが痛みに堪える身体を喜ばせる。


「美味しい」

『うん、これは当たりのたい焼きだった。……神田の生理周期把握してる同僚って俺くらい?』

「それもどうかとは思うんだけどね。張り込み中のトイレ問題もあるから仕方ない」


 犯罪者の追及は時に命の危険を伴うため、警察官はバディとなった相棒に自分の命を預けている。バディはいわば運命共同体だ。

一方が体調不良の場合に一方が業務をサポートできるよう、バディは互いの健康状態の把握が必要不可欠。


 しかし所轄時代のバディだった男性刑事とはこんな話はしなかった。

生理は女だけが抱える身体的なハンディキャップ。身体の造りの違いを理由に周りの男性に見下されたくなかった。


九条とは対等な関係を築きつつも彼は美夜の身体を気遣ってくれる。九条に生理の話をしたのはバディ結成から2ヶ月経った6月頃だった。


 ランドセルを背負った数人の女子児童が地面に落ちた木の葉を集めながら歩いている。色の綺麗な葉や形が整った葉を見つけてはジップロックに保存する彼女達は紅葉した葉で押し花のしおりでも作るつもりだろうか。


 美夜の友人も出産ラッシュだ。

夏に結婚式に参列した結衣子も妊娠報告がインスタグラムに投稿されていた。どうやら結婚式をした時には既に小さな命が宿っていたらしい。


 友人の子どもも、街ですれ違う子どもも、遠目から眺めていれば子どもは皆、可愛い。子ども達の無邪気な笑顔に殺伐とした心も癒される。


しかし美夜自身は子どもを持つ人生は考えられなかった。自分のような人間が親になれば、必ず子どもを不幸にする。

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