2-5
事件を起こした被疑者の逮捕と検察への送検までが警察官の仕事だ。警察の手を離れた被疑者は被告人となり司法の裁きを受け、裁判を終えて刑が確定した者は刑罰の種類によって各都道府県の拘置所や刑務所に収容される。
刑事が拘置所や刑務所を訪れる機会は少ない。九条大河が初めて訪れた葛飾区の東京拘置所は、刑が確定していない受刑者と死刑を言い渡された死刑囚の生活の場だ。
正直、気は進まない。上野一課長の命令だとしてもどうして自分があの男に会わなければならないのか、今も怪訝な面持ちで九条は前方を見据える。
透明なアクリル板の向こうに見える扉は閉ざされている。約束の時間の1分前に扉が開き、両手に手錠を嵌めた男が部屋に入ってきた。
『久々の尋ね人が誰かと思えば、珍しいお客様だね』
アクリル板越しに九条の前に座った男の口元には品の良い微笑が浮かぶ。この男は九条の階級では本来なら決して面会を許されない相手。
今回の面会も上野一課長が警察庁と法務省に掛け合い、特例で許されたと聞いた。
面会の相手は貴嶋佑聖。あの犯罪組織カオスの頂点に君臨していたキングだ。
警察関係者で貴嶋の名を知らぬ者はいない。実際に会うのは初めてでも、貴嶋が犯した犯罪行為の数々はデータとして九条の頭に入っている。
『警視庁捜査一課の九条だ。小山真紀警部補の班に所属している』
『そうか。彼女も自分の班を持つまでになったとはねぇ』
カオスが暗躍していた時代に捜査の最前線にいた上野と真紀は、貴嶋と何度も雌雄を決している。貴嶋への面会ならば、上野か真紀が階級的にも適任だろう。
『率直に言うと俺はここに来たくはなかった。一課長が行けと言うから来ただけで、ここに来て何の意味があるのかもわからない』
『君は素直だね。素直な人間が私は好きだよ』
日本の犯罪史上最悪と名高い犯罪者に好かれても嬉しくない。一緒の空間で同じ空気を吸うのでさえ虫酸が走る。
『……聞きたいのはジョーカーの件だ。一課長はあんたなら夏木十蔵とジョーカーの情報を持っていると言っていた。ジョーカーを知ってるよな?』
『ジョーカー……久々に聞いたよ。懐かしい名前だ』
椅子に深く腰掛けた貴嶋は組んだ脚の上に両手を添えた。この男はひとつひとつの仕草が鼻につくほど優雅だ。海外の紳士でも気取っているのかもしれない。
『ジョーカーは一切の感情を交えず人を殺す。頭も良く、仕事の早い人間だったから重宝していたよ』
『ジョーカーの正体は誰なんだ?』
思わず前のめりに身を乗り出した身体がパイプ椅子を軋ませた。何の感情表現のつもりか知らないが、貴嶋は小首を傾げて明後日の方向を見つめている。
『ジョーカーは夏木十蔵に最も近い人間とでも言っておこう』
『近い人間と言うと会長の秘書……とか?』
『それはどうかな。秘書なんていつ縁が切れてもおかしくない繋がりを私は最も近いとは言わない。縁を切りたければ会社を辞めればいい』
『じゃあどういう意味だ?』
『切りたくても切れない繋がりがあるんだよ。
抽象的でまどろっこしい。真紀が貴嶋と話しているとイライラすると言っていた意味がよくわかる。
こんな話をするくらいなら捜査本部に加わって、一刻も早く雨宮冬悟を殺害した犯人、そしてジョーカーとの関連性を解明したい。
雨宮の骨は上腕部しか発見できていない。他の部分は海の底だ。
それだけの証拠では雨宮がいつ、どのように殺害されたか知る手立てはなく、雨宮の死亡推定時刻が割り出せないと木崎愁のアリバイも調べようがない。捜査は八方塞がりの状態だ。
『君は他にも心にしこりを抱えているね。私でよければ話を聞こう。ここは退屈でねぇ、外の世界の話に飢えているんだ。好きなだけ話せばいい』
貴嶋佑聖は
これがカリスマと言われる人間だけが持つオーラ。
人を惑わし惹き込み、無意識に心の奥をさらけ出させる。油断すると呑まれてしまいそうになる貴嶋の気に、九条の心は緊張していた。
『俺が怪しいと睨んでる男がジョーカーだったら、の話として聞いてくれ。犯罪者を好きになった女はどうなるんだ?』
『ジョーカーに惚れている女性がいるという話かな』
『俺も彼女の本当の気持ちはわからない。だけど好きになれば不幸になるだけの男を好きになった女はどうなる?』
『その女性は君と同じ警察官、しかも君と近い関係にある。相棒かな?』
何故と言いたげにあんぐりと口を開ける九条に貴嶋は子どもっぽいイタズラな笑顔を向けた。年齢では四十になるはずの貴嶋は、そうして陽気に笑っているとやんちゃ盛りの高校生にも見える。
まったく得体が知れない。
『口に出さずともわかるよ。君は心が顔に出やすい。素直で結構だが、人としての長所は刑事の面では短所となる。気をつけなさい』
指摘を受けて触れた頬は強張っている。気持ちが顔に出やすいとは美夜や真紀にも散々指摘される九条の短所だ。
直そうにも、彼はポーカーフェイスが大の苦手だった。
『刑事がジョーカーを……なるほどね。犯罪者と知ってもその男を愛し続けた女性を私も知っている。私が彼女と出会った時、彼女はまだ高校生だった。彼女が愛した男は私の部下。二人が結ばれた時点で、男はすでに人を三人殺していた』
『それでその彼女は……』
『彼女はすべてを自分で選択していた。男を愛したことも、男を忘れずにいることも、自首をさせることも。心が真っ直ぐな女性だった。私も彼女に救われたひとりだ。ここに閉じ込められた今も、私は彼女の幸せを願っている』
『君が心配している女性も最後の選択は自分で下す。恋愛の選択に周りの人間は介入できない。そういうものだよ』
『部外者は何も言わずに見守れって言いたいのか?』
『見守る愛もある。君にそれができるならね。破滅に向かう選択だとしても彼女が選んだ答えを君が止める権利はない。彼女の人生だからね』
美夜の選んだ答えを止める権利は九条にはない。死刑囚に突き付けられた言葉は正論だった。
犯罪者に諭される屈辱よりも、美夜の人生に介入する権利がない現実が鋭い硝子の破片として心に刺さる。
『トランプのジョーカーは何枚ある?』
『一枚……じゃなく、二枚か。いきなり何を……』
『トランプにはジョーカーとエキストラジョーカーの二枚のジョーカーがある。ジョーカーのカードに描かれているイラストはただのピエロではないよ。あれは宮廷道化師。キングに臆せず物を申せる特別な権利を与えられた道化師なんだ。宮廷道化師を表す二枚のジョーカー……私が何を言いたいか、わかるかい?』
貴嶋が言うところの“キング”が夏木十蔵、宮廷道化師は木崎愁……いや、貴嶋の口振りではもうひとり、エキストラジョーカーがいる。
『ジョーカーは二人いる……?』
『私は君が気に入った。だからひとつ忠告をしておこう。恐ろしいのは躊躇なく人を殺せる
多くの命をその手で奪ってきた死刑囚は最後まで穏やかな口調で言葉を終えた。
殺人は正義ではない──犯罪者の分際で正論を口にする貴嶋が視界から消えても、九条はそこを動けずにいた。
ただただ、圧倒されている。
犯罪組織カオスのキングは得体の知れない不気味な優しさを放つ、魅惑の魔王だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます