3-12
赤坂二丁目の自宅まで美夜を送り届けた愁は花火の余韻が残る街で煙草をふかしていた。
港区では公共の場所での喫煙は条例で禁止されている。そんな条例くそ食らえだと、ルールを破る側の人間である自覚が彼にはあった。
ルールを守れる人間ならば、そもそも人殺しはしない。
この細道を直進すれば氷川坂に出るが、今しばらくは家に帰りたくない気分だ。
煙草のフィルターの一部が薄紅色に色付いていた。紅色に紛れてラメのようなパールのようなものがちらちらと
色の正体がキスで色移りした美夜のルージュだと理解した愁は失笑し、色付いたフィルターを唇に挟んだ。
ガードパイプに腰掛ける彼の視線の先には勝海舟と坂本龍馬の師弟像がある。偉人の銅像の前で堂々と煙草を咥える男は、ワイドパンツのポケットで振動するスマートフォンに顔をしかめた。
{仕事用の携帯に何度かけても出なかったので}
『悪い。あっちのスマホ持って出るのを忘れた』
白色のスマートフォンを鳴らした相手は日浦一真だ。仕事用の黒色のスマホはデスクの引き出しの底で主の帰りを待っている。
{今はおひとりですか?}
『家の近くで花火見物した後の帰り。伶も舞もいねぇよ。……仕事か?』
{ええ。1時間後に会長の家に来られますか?}
『1時間あるなら余裕』
刑事とキスをした直後の殺人の仕事。上手く言葉にできない感情が紫煙の溜息となって光のない夏空に消えた。
いつもより重たい足取りで帰宅した愁を出迎える姿はない。静かな廊下を曲がって自室に帰りついた彼は出掛ける準備を始めた。
この感覚は情事の直後に似た、夢の終わりの覚醒。冷めた憂鬱の正体は部屋と服に住み着く女の匂いだ。
美夜の匂いが染み込んだサマーセーターを脱ぎ捨て、誰にも染まらない黒のワイシャツに袖を通す。
遠慮がちなノックの後に部屋を訪ねてきたのは伶だ。
『仕事ですか?』
『戻りは朝方になる』
『一夜漬けならけっこうな人数ですね』
『この熱帯夜に組ひとつぶっ壊せって命令だ。ジジィは相変わらず人使いが荒い。……何か言いたげな顔だな』
カフスボタンを留める愁を伶は扉を背にして見据えている。そうやって扉の前で仁王立ちされていては出るに出られない。わざとだろう。
『あの人が彼女って嘘ですよね』
『舞には言うなよ』
『厄介なことになるから言いませんよ。あの人とは本当はどんな関係なんです?』
『単なる顔見知り』
表の仕事ではないからネクタイは必要ない。身につける装飾品は腕時計とサングラス、ジャケットのポケットには煙草とライターを詰めた。
『顔見知り……ですか。それにしては……』
『なんだよ』
『まさかとは思いますけど、愁さんは演技じゃなかったんじゃないかって』
『何が言いたい?』
伶のまわりくどい言い回しはしばしば愁を苛つかせる。愁の苛つきは承知の上で話を切り上げない伶の強情さも妹の舞を思うがゆえ。
『舞だって神田さんが偽物の彼女だと見抜いていますよ。どう見てもあの人は演技がヘタクソでした。でも舞がショックを受けたのは、嘘をつかれたことや愁さんに振られただけではないんじゃないかな。舞の前で神田さんとの結婚を匂わせたのが嘘だとしても、俺でさえ、あの時の愁さんは本気に見えました』
普遍的な幸せを拒絶して生きてきた愁が口にした結婚の一言は伶と舞の心に深い衝撃を与えた。
あの時の心情を問われても愁は答えない。無言の愁にこれ以上の押し問答はやぶ蛇だと悟った伶は
『この前、鎌倉行っていたんですよね。朋子さんの様子はどうでした?』
『変わらずだ。旦那と別れた途端に生き生きする女の典型だな』
『薄々感じていたんですが、愁さんと朋子さんって……』
言葉の先を言い淀む伶の言いたいことは察しがつく。
『お前の想像通り。俺が十五の時から関係が始まってる』
『会長は気付いているんですか?』
『気付くも何も会長公認だ。頭のおかしな夫婦だろ?』
朋子の愁を見る目付きは完全に
『お前も地獄を見たくねぇならこの件には知らないフリを通して口を挟むな。いいな?』
『わかりました。けど神田さんは朋子さんとのことは知らないんでしょう?』
『わざと聞いてるよな?』
『わざとです』
ポーカーフェイスの愁と微笑する伶の対峙。伶はどうしても美夜に関した核心を突く言葉を言わせたいらしいが、奥に潜ませた心の声を伶に語り聞かせる筋合いはない。
『あの女は何も知らない』
『愁さんの仕事も?』
『知っていたら俺と関わりを持とうとしないだろ』
伶が知らない事実がまだある。伶と舞の前では仕事は区役所の職員と名乗っていた美夜の本当の職業は警察官。
美夜は、愁が決して出会ってはいけない部類の女だった。
ドアノブに触れた伶は開きかけた扉を閉じて顔だけを後ろに向けた。
『愁さんは恋人を殺せと言われたら殺せますか?』
『相手が誰であれ仕事は遂行する』
『……ぶれませんね。支度の邪魔をしてすいません。仕事、気を付けて』
扉が閉じた音を合図に愁はデスクの椅子に深く腰掛けた。ひとりきりになった部屋に残留する女の粒子が彼を包み込む。
花火に照らされた美夜の横顔が綺麗だと思った。キスをしたいと思った。彼女が欲しいと思った。
柄にもない衝動的な己の思考に呆れた愁の瞳は書棚の小説の背表紙を捉えている。その古びた小説はシェイクスピアの不朽の名作、ロミオとジュリエット。
夏の夜に狂い咲いた夕顔の想いに気付いた時にはもう遅い。何もかも。
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