3-11
花火が鳴り響く夜道に、二人分の足音が重なる。氷川坂から転坂に入った美夜と愁は登りとなった転坂の傾斜にサンダルを滑らせた。
2時間前にこの坂道を下った時は西側に赤い太陽が落ちていた。今はその場所には夜にしか見えない花が咲き乱れている。
「舞ちゃんをきっぱり振るなんて意外でした」
『未成年と恋愛する気はねぇよ』
「それにしたってあの振り方は残酷ですよ」
『優しい言葉で曖昧に振って未来に期待を持たせる方が酷だろ? 舞を恋愛対象に見ることはない。一生な』
転坂を登りきって平坦な道に入ると道沿いの背の高いマンションやビルのベランダに人の影をちらほら見かけた。花火の音に紛れてどこかの家の赤ん坊の泣き声も聴こえる。
きっと今頃、舞も泣いている。自分の存在によって少女の心を傷付けた言い様のない罪悪感は数歩先を歩く愁の背中が視界に入るたびに大きく膨らんだ。
辿り着いた赤坂氷川公園には夜空に咲く花を楽しむ人々が集まっている。
送ってもらうのもこの辺りまでで構わないのに、
『今度ムゲットで何か奢る』
「それは食事の約束?」
『ムゲットは飯を食う店じゃなかったか?』
「勘違いされるのが嫌だから彼女役が私になったんですよね?」
『深い意味はない。ただの礼だ』
木崎愁は残酷で優しい男だ。
此処を立ち去れない美夜の想いを知ってか知らずか、愁から触れ合わせた指先が美夜を絡めとって離さない。
さっきもそうだった。伶と舞に気付かれぬようテーブルの下で繋がれた大きな手を払い除けられなかった。
絡めた二人の指は離れる気配もなく美夜を公園の内部に誘った。
公園に繋がる階段を上がって左に折れた所には自転車置き場とシャッターの降りた防災用の資材置き場がある。ここは道路からも園内で花火見物をする人々の視線からも逃れられる死角の場所。
誰の視界にも入らない死角で二人きり。皆がスマートフォン越しの夜空を見上げていても彼女と彼の瞳に花火は映らない。
「私が舞ちゃんに感じている罪悪感も木崎さんにはわからないんでしょうね」
『舞に罪悪感を感じる必要あるか?』
「ありますよ。だって……」
呑み込んだ言葉の欠片を探しても何を言おうとしていたのか今となってはもう曖昧だ。
『……だって、の続きは?』
繋いだ手とは逆の手で美夜の片耳を塞いだ愁の指に鈴蘭のピアスが優しく触れる。片耳が塞がれた世界で愁の声だけが鮮明に聴こえた。
「こうやって二人でいることも舞ちゃんを傷付けていますよね。早く帰って慰めてあげてください」
『あれでいいんだよ。舞は俺から離れないといけない。俺も舞から離れる時だ』
「だからって木崎さんの子離れのために私を利用しないで……」
苦し紛れの文句を呟いたところで愁には
この街で空を見上げていないのは美夜と愁だけ。
塞がれた耳元に指以外の新たな感触が伝わって、美夜の肩が微かに跳ねた。耳たぶに触れた愁の吐息と唇の刺激は電流のように彼女の身体を駆け巡る。
熱い、熱い。何もかもが火照って熱い。このまま溶けて消えてしまいそうな熱に犯された美夜の身体はいつの間にか愁の両腕に入り込んでいた。
『勘違いしない女だから彼女のフリをあんたに頼んだのにな。どうしたらいい?』
「その質問は……どういう意味?」
『こういうことをしてもいいかって意味』
返事を紡ぐ間も与えず重なった唇は両者の熱を吸ってさらに熱く、もっともっと二人を溶かす。
息継ぎの仕方もわからず愁のキスに呑まれ続けた美夜は行為が途切れた一瞬の隙に顔を背けた。
「花火……もうすぐ終わっちゃいますよ」
『花火が終わるまでは俺の女でいろよ』
「……勝手な人」
文句を言いかけた美夜の唇はまた塞がれた。後頭部に添えられた手で抱え込まれ、腰を引き寄せられ、角度を変えて何度も何度も甘く貪る。
美夜が彼の背中に手を回せばもっと強く抱き締められた。互いの汗の匂いも、愁から香る甘い煙草の匂いも、美夜から香るアールグレイのコロンの匂いも、すべてのものがひとつに混ざる。
「どこからが嘘なの?」
『全部、嘘』
「……最低」
最低と言いながら今度は美夜から愁に唇を寄せる。表面を軽く重ねただけで終わらせてくれる優しい男ではないと、わかっていて触れ合わせた唇は期待通り深いところで繋がった。
花火の音は遠くなり、吐息の音は近くなる。
チクリと心の痛みを伴う舞への罪悪感とは裏腹の溢れてくる熱情が理性を鈍らせた。
速くなる鼓動は誰のせい?
遠くなる意識は誰のせい?
朦朧とするのは夏のせい?
一夜の熱情は誘惑のせい?
花火が終わるまでの束の間のキス。恋人のフリをした偽物のキス。
花火の終演と共に偽りの恋物語は幕を下ろす。
夜空に狂い咲く花を背にして唇を重ねる男と女。
男も女も願っていた。
花火よ、まだ終わらないで、と。同じ願いを夜空に懸けていた。
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