2-8

 21時過ぎに赤坂のマンションに帰宅した愁を待っていたのは伶だった。舞がすでに就寝したと告げられた愁は苦笑いと溜息を同時に漏らす。


『説教は明日だな』

『俺からもお灸は据えておきました。愁さんに叱られたことが相当ショックだったようですよ』

『だったら小学生並のワガママを治して欲しいものだ』


緩めたネクタイを首からほどき、愁は大きなソファーに横になった。何も言われなくても愁のコーヒーの準備をする伶は湯を沸かしながら対面式キッチンの向こうの愁に話しかける。


『最近、舞が京香きょうかに似てきた気がして怖いんです。舞のあの我を通す性格は母さんじゃなくて京香に似ている』

所詮しょせん、産みの親より育ての親か』

『そうですね。舞は産みの親よりも京香と一緒にいた時間が長いから当たり前かもしれません。血が繋がっていないのに舞があの女に見える時があるんですよ』


 伶には母の名が付く存在が三人いる。実母、継母、養母。京香は実父の後妻だ。


『まだ女の夢見てうなされるのか?』

『たまに。悔しいけど京香にはトラウマ植え付けられましたからね。愁さんが殺さなかったらいつか俺が二人とも殺していた』


10年前、愁は夏木十蔵の命を受けて伶の父親と継母を殺害した。

銃を向けた時の京香の怯えた顔を愁は思い出せない。顔をよく見る前に撃ち殺したせいで、たいして記憶に残らない女だった。


 伶が淹れてくれた熱いコーヒーが疲れた身体に染み渡る。伶自身はアイスコーヒーを作っていた。


『今日、愛佳の付き添いで日本橋の美術館のプレオープンに行ってきたんです。金魚と花を組み合わせたアート水族館でした』


 伶が差し出したリーフレットに視線を落とす。日本橋のアクアドリームは朋子が話題にしていた施設だ。

リーフレットに載る雨宮蘭子の名前に愁は伶の意図を理解した。


『雨宮蘭子も会場に来ていました』

『向こうはお前に気付いたか?』

『会場は人が多いですし、雨宮の人間とはろくに会ったことがなかったので俺を見ても母さんの息子だとは気付きませんよ』


 平然と雨宮の名を口にする伶は知らない。

何故、15年前に伶と舞の母親は自殺したのか。

何故、10年前に愁が伶の父親を殺害したのか。

何故、夏木十蔵が伶と舞を養子に迎えたのか。


 伶はまだ何も知らない。

知らなくても生きられるのならできればこのまま知らないままで。

それが愁の願いだった。


        *


 閉館時間を迎えて人がいなくなったアクアドリームの館内に雨宮蘭子は佇んでいる。プレオープンは無事に終えた。明日のオープンを見届けたら京都に帰らなければならない。

水中をゆらゆらと揺れる金魚達の水槽の前を蘭子の物ではない靴音が通過した。


『蘭子さん、お疲れ』

「冬悟もお疲れ様。デモンストレーションのサポートありがとう」


 靴音の主は蘭子の親戚、雨宮冬悟。彼は二つ持つ缶コーヒーのひとつを蘭子に手渡した。

缶同士を触れ合わせて乾杯の仕草をしてから、二人はコーヒーに口をつける。


「プレオープンに紫音しおんの息子が来ていたの」

『伶が? 何か話したの?』

「ううん。通路で見掛けただけ。女の子と一緒だったからきっとデートね。写真で見るよりも伶は紫音にそっくりだった」


 京都の名門華道家、雨宮流の現在の当主は蘭子の兄だが、先代当主は蘭子の父だった。

冬悟は先代当主の弟の息子であり、東京に拠点を移した分家の現当主。


『伶はもう大学生だろう?』

法栄ほうえい大の三年生。舞は紅椿べにつばき学院の高等部に上がったそうよ」

『舞も高校生か。早いな』


伶と舞の実母、雨宮紫音は雨宮分家の長女。冬悟の妹だ。

夏木家の養子に入った兄妹にはれっきとした雨宮家の血が流れている。


「紫音が死んで、それだけの月日が流れたのね」

『もう15年になるからね』


 雨宮家から埼玉の明智あけち家に嫁いだ紫音が自殺したのは2004年の1月。

舞が一歳になった直後の訃報だった。


「伶はこのまま夏木コーポレーションを継ぐのかしら」

『そのための養子だろう』

「わかってるけど、あの子達は雨宮家うちで引き取りたかったのに……」


10年前に紫音の元夫の明智とその後妻が殺された。あの事件で親を失った伶と舞の引き取り先に母親方の実家の雨宮家が候補に挙がっていた。


『仕方ないさ。紫音が死んだあの時に伶と舞と雨宮の縁は切れた。それに伶と舞の親権を夏木十蔵に譲る代わりに雨宮流は夏木から出資を得たんだ』

「それで雨宮流が持ち直したのだから皮肉なものね」


 10年前当時、資金難に陥っていた雨宮家は伶と舞の親権を辞退する代わりに夏木十蔵から多額の資金援助を得た。

最後は金を持っている者が勝つ世の中。


 中身が残る缶コーヒーを手にして蘭子は展示室を出た。彼女はロビー中央に立ち、上を見上げる。後を追ってきた冬悟も隣に並んだ。


「どうして夏木十蔵が伶と舞を欲しがったのか、ずっと不思議だったの」

『夏木家には子どもがいないから跡取りが欲しかったんだろ?』

「だからって躊躇なく五億出して他人の子どもの養育権を買う? どう考えても普通の感覚じゃない」

『あの夏木十蔵に普通の感覚を当てはめてもなぁ……』


 吹き抜けの天井に見えた夜の入り口。

ここは暗い、暗い、水の底。

そこは暗い、暗い、因縁の泥沼。

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