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 彼女は沈んでいく。どんどん、どんどん、死の底へ。水を吸って広がる長襦袢ながじゅばん朱殷しゅあんの水中花。

終わらない永遠の眠りについた彼女は現実のオフィーリア。


        *


 東京に2週間振りの雨が降り注いだ8月7日の午前11時頃、沈黙を続けていた鳴沢栞里のインスタグラムが再び動いた。


栞里のストーリーズに投稿された写真には水に浮かぶ和服姿の女が写っている。青々とした水面に両手を広げて浮かぶ女の顔は青白く、唇と長襦袢だけが不自然に毒々しい紅色だった。


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

この人栞里ちゃんじゃないよね。誰?


栞里ちゃんやっぱり死んだの?


人気インスタグラマー失踪って名前出てニュースになってたからこの前のあれは栞里ちゃんの死体だと思う


また死体風アート?


看護師やってる人間の意見として聞いてね。この子本当に死んでると思う。

医療従事者として見過ごせないから警察に通報した


死に装束アートや死体風アートって言ってツイッターで面白がって拡散してる人達が信じられない

__________


 スクリーンショットとハッシュタグ、厄介な機能によってSNSに拡散される新たな死体写真。二人目の死体アートの出現に雨の東京はざわついていた。


 緊急の捜査会議が終わりを告げる。焦燥を抱えて駆け出す刑事の群れとは逆の壁際に私服の男が突っ立っていた。今日は非番のはずの九条大河だ。


『近くに用があったから寄ってみた。状況は?』

「写真の女の身元は割れた。小松原皐月、目黒区在住の二十五歳。自宅と同じ目黒区の歯科医に歯科助手として勤めてる」


 小松原皐月もインスタグラムで一万五千人のフォロワーを持つ人気インスタグラマーだった。

鳴沢栞里のフォロワーには皐月のインスタグラムをフォローしているユーザーがかなりの数含まれており、ストーリーズの死体アートを閲覧したユーザーから被害者の情報を提供する110番通報が何件か届いた。


通報を元にネットに流れる様々な情報を集約した結果、第二の死体アートの被写体が小松原皐月であると判明した。


「今から地取じどりで日本橋に行くけど、一緒に来る?」

『予定まで時間あるし行く。状況を把握しておかないと落ち着いて休日も過ごせない』


 地下駐車場の車に二人は乗り込む。今日は美夜が運転席、九条が助手席。


「栞里のスマホの発信地点はまた渋谷駅だった」

『わざと人の多い渋谷駅でスマホ起動させたのかと思ったが、こうなると渋谷が犯人の行動範囲の中心かもな』


 犯人は栞里のスマホを渋谷駅構内で起動させ、栞里のインスタグラムのストーリーズで二つ目の死体アートを披露した。


今度は造花に埋もれた死体ではなく水に浮かぶ溺死体のようであったが、死体写真を見た検視官の所見では死因は溺死ではなく栞里と同じ毒物による中毒死。

死体もなく解剖ができない現状では正確な死亡推定時刻も割り出せず、毒物の特定にも至っていない。


「なんで栞里のスマホからの投稿だったんだろう。皐月もインスタグラムをやっていたなら、あの投稿も皐月のインスタを使えばいいと思わない?」

『二人目の被害者のスマホにはロックがかかっていたんじゃないか? 栞里の家族の話だと、栞里はスマホにロックはかけてなかったって言ってたよな?』

「ああ……なるほど。皐月のスマホは暗証番号か指紋認証でロックをかけていたから、犯人は操作できなくて代わりに栞里のスマホとインスタを使ったわけね」


 皐月のスマートフォンの位置情報も特定できていない。犯人の手で電源が切られたのだ。

皐月の生存が最後に確認された場所は日本橋に今日開業する水槽展示美術館、アクアドリーム。

皐月のインスタグラムに掲載された昨日の投稿内容によれば、彼女は昨日行われたアクアドリームのプレオープンイベントに招待されていた。


 到着したアクアドリームの施設前には生憎の雨天にも関わらず、入場口の前には傘の列ができている。

テレビ局のカメラも見かけた。国内初の水槽展示美術館はかなりの注目度の高さらしい。


『すげぇ人の数だな』

「今日がオープンだからね。私達は裏口から入れるよう話がついてる」


 美夜と九条の応対に出たのはアクアドリームの広報担当者。

昨日のプレオープンには施設を新しいSNS映えスポットとして広めるため、インスタグラムやツイッターなどのSNSフォロワー数が一万人以上のインフルエンサーを対象にイベントに招待していた。


 小松原皐月も招待客だ。皐月のインスタにもアクアドリームのプレオープンの様子が投稿されている。


 まばゆい光を放つビー玉と赤い金魚が散らばる水槽の側で皐月は笑っていた。この笑顔の数時間後に皐月の時は永遠に止められ、二度と動かない。

第二の死体の側に造花の金魚草はなかった。けれど美夜には皐月が纏っていた水を吸った真紅の長襦袢が金魚の尾びれのように見えていた。


 美術鑑賞による個人の見解や解釈は自由だ。ある作品を綺麗だと思うのも汚いと思うのも、死体を見て美を感じる衝動も、人の感情は縛れない。


だがアートに秘めた製作者の意図と想いは固定されている。

製作者犯人が作り出したアート殺人に込められた狂気。それを読み取らなければ事件の核は掴めない。


 皐月の最後のストーリーズ投稿の推定時間は昨日の14時。

ちょうどその時間から、プレオープンイベントでは展示の監修に携わったフラワーアーティストの雨宮蘭子のデモンストレーションが始まった。


皐月は動画を投稿している。彼女はデモンストレーションが行われた14時頃まではアクアドリームの館内にいた。問題はその後の行方だ。

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