2-10

 アクアドリームの館内を出てもまだ小雨が降り続いている。美夜はこれから皐月の目撃情報の聞き込みに向かうが、九条はしきりに腕時計を見ては時間を気にしていた。


「九条くん用事があるって言ってたよね。目的の場所まで送ろうか?」

『悪い。じゃあ日比谷公園で降ろして。その近くのカフェで待ち合わせしてるんだ』

「待ち合わせって……彼女できたの?」

『バーカ。あの子だよ。万引き未遂で知り合った雪枝ちゃん』


 車が日本橋から日比谷方面に向かう。フロントガラスを打ち付ける雨の雫を見ていると自分が硝子の部屋に閉じ込められた魚に思えてくる。

あの施設にいた金魚達も硝子の部屋とファインダーに小さな命が収まるように、窮屈そうに生きていた。


「まだあの子と連絡取ってたんだ」

『たまにな。学校の話聞いたり、俺のつまらない長話も嫌がらずに聞いてくれる。いい子だよ』

「二人で会うのは今日が初めて?」

『先月に一回会ってる。その時から感じていたんだけど多分、雪枝ちゃんは俺に話したいことがあるんだ。学校の友達のことか家族のことか……何か抱えてるんだよ』


 なかなか言葉を返さない美夜の言いたいことは隣の相棒には言わなくても伝わっている。


『どうせ呆れてるだろ?』

「多少お人好しだとは思ってる」

『ほらみろ。呆れてるじゃん』


 珍しい私服姿の九条は唇を尖らせてそっぽを向いた。スーツの彼を見慣れているせいか、Tシャツとジーンズ姿の九条は職務中よりも若返って見えた。

大学生に見えると言えば怒るだろうか。


「私が高校の時に九条くんのようなお人好しでお節介な友達やお兄さんがいたら良かったのにって、雪枝ちゃんが羨ましくなった」


これは本心だ。もしも10年前に九条と出会えていれば彼のお人好しとお節介が美夜の凍った心を溶かしてくれたかもしれない。


 おかしなものだ。九条と今ここで時間と空間の共有ができるのも10年前に犯した罪をゆるされるために刑事になったからだと言うのに。

誰も知らない美夜のあの罪がなければ、暑苦しくてお人好しでお節介なこの男とも一生出会わなかった。


『神田も本当に助けが必要な時はいつでも来いよ。肩か胸くらいなら貸してやる』

「そうなった時はちゃんと頼るよ」

『……約束な』


優しさを含んだ声で念押しされても必要な時に九条を頼れる自信はない。


 美夜は頼り方を知らない。

ひとりで生きていけるように、ずっとそうやって……ひとりになってきたんだから。


        *


 日比谷公園の前で車を降りた九条は小雨に打たれる日比谷通りを小走りに駆けた。

大橋雪枝との待ち合わせ場所は日比谷通り沿いのカフェ。帝国ホテルの前を通って、カフェが入るビルの軒下で傘を畳む。


オレンジとブラウンでまとめられたシックな装いの店内は千代田区の立地のためか、若年層よりも上の世代の姿が多い。

その中でひとりで席に着く雪枝は大人の中に子どもがひとりで紛れているような、心許こころもとない顔でカフェオレを飲んでいた。


『ごめんね、予定より遅くなった』

「大丈夫です。お仕事忙しいのに無理言ってすみません」


 ここが渋谷か原宿のカフェならば、雪枝と同世代の男女が席を占めていて居心地の悪さを感じることもなかっただろう。

しかし会う場所に警視庁の側を提案したのは雪枝だった。


雪枝は何故か、高校生の遊び場である渋谷や原宿には行きたがらない。7月に会った時も場所は雪枝の自宅が近い五反田ごたんだ駅前のファミレスだった。


『非番だから本当は今日休みなんだけどね』

「大きな事件があったんですか?」

『前から抱えてるちょっと厄介な事件がさらに厄介なことになってね。参ったよ』


 雪枝はいつも事件の話に興味を示す。九条がどんな事件を扱っているのか詳しく聞きたがるが、守秘義務があるため雪枝の期待には応えられない。


事件の話を軽く流して九条はホットコーヒーを注文した。注文の合間に雪枝が先に頼んだミルクティーとレアチーズケーキがテーブルに到着する。


 ミルクティーとケーキを前にしても雪枝はどちらの食器にも触れない。うつむいたり視線を上げて九条の顔色を窺ったりと、そわそわと落ち着かない様子だった。


『紅茶冷めちゃうよ。ケーキも俺に構わずに食べていいよ』

「あの……」

『どうした?』

「インスタに載せるケーキの写真を撮って欲しいんです。だけど顔は写さないでください。ケーキがちゃんと写るように……」


 気恥ずかしそうに自分のスマートフォンを差し出す雪枝の意図を彼は理解した。年齢層の高いこの店内でさえテーブルのあちらこちらで大人達がコーヒーやケーキをスマホのファインダー越しに覗いている。


 現在追っている事件でもインスタグラムが重要な証拠だ。毎日毎日、警視庁のパソコンから被害者のインスタのページにアクセスして、目を皿にして手掛かりを探す。


雪枝の前ではおくびにも出さないが、これだけ捜査でインスタグラムに触れているとさすがにその存在自体に辟易へきえきしてくる。


『インスタって皆やってるもんなんだな』

「私も最近始めたんです。インスタやっていないとクラスの子達の話題についていけないから」


 学校の話をする雪枝は時折、寂しげな表情を見せる。電話で話していても話題が学校の話に及ぶと彼女の声は覇気を失った。


SNSをしていないと同級生の輪に入れない……、流行りに乗らないと仲間に加われない疎外感は九条にも過去に覚えがある。

いつの時代も何歳であっても人付き合いは大変だ。


 向かい合う雪枝の顔が写らないように手前のケーキにピントを合わせた九条の指がスマホのシャッターボタンを押した。


撮影できた写真はレアチーズケーキとミルクティー、着席する雪枝の上半身のみが写り込んでいる。写真の構図や出来がこれでいいのかわからないが、雪枝は満足そうだった。


『俺はそういうコミュニケーションツールってやつが向いてなくてさ。学生時代も一応、当時の流行りだったブログの登録はしても何か投稿するでもなく放置で、ひたすらサッカーの練習してたな』

「そう言えば九条さんが教えてくれたサッカー選手の彦坂ひこさか京介きょうすけさんのインスタを見つけましたよ」

『京介さんもインスタやってるの?』


 彦坂京介はイタリア、セリエAの強豪チームに所属するプロサッカー選手。ワールドカップの日本代表にも選ばれている日本が誇る一流の選手だ。

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