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8月3日(Fri)


 鳴沢栞里殺害事件の捜査は一向に進展のないまま、迎えた8月最初の金曜日。

捜査一課の小山班と伊東班は今日も栞里の死体探しと失踪前の彼女の足取り、栞里のスマートフォンの最後の発信地点となった渋谷駅付近の不審人物の捜査に尽力しているが、充分な手掛かりは得られていない。


 刑事達の顔色に疲れと焦りが見え隠れする中、美夜と九条は上野一課長に呼ばれた。


『悪いが、二人で城東じょうとう署に行ってくれ。城東署の管轄内で起きた殺人事件の被疑者が取り調べの担当に神田を指名しているんだ』

「私を? 何の事件ですか?」

『江東区の看護師殺人。被疑者は警視庁捜査一課の神田という女刑事が来るまで黙秘を貫くと言い張っているようだ。九条は神田の付き添いを頼む』


 一昨日の8月1日、江東区亀戸かめいどのマンションで殺人事件が発生した。被害者はマンションの住人で江東区内の病院に勤務する看護師、下山祐実。


死因は刃物による刺殺。捜査資料に添付された現場写真には、床に倒れたアイビーの鉢の隣でふくよかな腹にナイフが刺さった女が絶命していた。


 死亡推定時刻は8月1日の午前10時から午後3時の間。この日、夜勤明けの祐実は勤務を終えて朝8時頃に病院を出て帰宅している。


夫の下山彰良は医療系メーカーの会社員。帰宅した18時過ぎに彰良は変わり果てた妻を発見し、110番通報した。


『江東区の看護師殺害って被害者の夫の元カノがツイッターで“殺したのは自分だ”と名乗り出た事件だよな。そのおかげでスピード逮捕だ』

「忙しくてろくにニュースも見れてなかったけど、ワイドショーではかなり盛り上がった事件らしいね」


 下山祐実殺害容疑で逮捕された被疑者の欄に書き記された名前と勤め先は美夜の記憶に新しい。

どうしてがこんな事件を起こし、取り調べの担当刑事に美夜を指名したのか。


 疑念を抱えて美夜達は江東区に所在する城東警察署に赴いた。

城東署の刑事をひとり付き従え、美夜は取調室の扉を開いた。九条は取調室の隣室でマジックミラー越しにこちらの様子を傍観する。


「あなたとこんな場所でまた会うとは思わなかった」

「私はもう一度神田さんに会えると思ってたよ。あの時にはもう、こうするって決めてたから」


 取調室の被疑者の席にいるのは玉置理世。鳴沢栞里の事件捜査で理世が勤務するヘアサロンを訪れたのはつい3日前だ。


「あなたに巻いてもらった髪、同僚に好評だったよ」

「良かった。38ミリのコテで巻けばふわっとしたゆる巻きになるよ。神田さんは巻き髪も似合うから、たまにはやってみて」


理世の表情は3日前に会った時と変わらない。晴れ晴れとした彼女の顔には人を殺した後悔も懺悔も感じられなかった。


 捜査資料の記載には被害者、下山祐実の夫の彰良と理世は2年前まで交際していたとある。理世が殺害した祐実は元彼の妻だ。


「下山彰良とあなたが別れたのは2年前よね。このタイミングで彼の奥さんを殺害するなら、まだ下山彰良に未練があったの?」

「あるわけないでしょ。彰良よりもいい男はいくらでもいる」


 元恋人をさげすむ理世は即座に未練からの犯行を否定した。それでは何故、別れて2年が経過した男の家庭を今さら壊す必要がある?


「神田さんは絶対に振り向いてもらえない人に片想いした経験はある?」

「ろくに恋愛をしてこなかったから人に話せるだけの経験がないの」

「そっか。セフレの経験もない?」

「ないよ」


隣室で九条もこの会話を聞いている。もしもここで美夜がセフレ経験があると答えれば彼は驚いて卒倒するかもしれない。


「私ね、店長のセフレだったんだ」

「店長ってあの男の人?」

「うん。1年以上そういう関係を続けてた。私は店長が好きだったけど店長が私をどう思っていたかはわからない。こんな事件起こして店に迷惑かけちゃったし……嫌われたかな」


 元恋人の下山彰良に対しては鼻で嘲笑う態度を見せていた理世が、ヘアサロンの店長の話になると伏せた目元を潤ませた。


「お店もうすぐ無くなるの。店長、あの店畳んで実家に戻るんだって」

「お客さんは沢山入っていたじゃない。繁盛しているように見えたよ」

「今まではね。でも来年からビルの家賃が値上がりするらしくて、契約更新が難しくなったんだ。店の営業も年内で終わる。スタッフは全員知ってるよ」


 2020年開催の東京オリンピックの影響を受けて東京都の地価は軒並み上昇傾向にある。理世の職場が所在する港区も地価が上昇している地域だ。


「落ち着いたら実家の近くでまた店を始めるって言ってたけど、ついて来てとは言われなかった。付き合ってもないから当然だけど、店長からは結婚の話すら出なかったの。おまけに店長の友達に告白されて、店長はその人を後押してさ……」


職場は年内で閉店、好きな男とは身体の関係以上を望めず、自暴自棄になったということか。


「彰良とあの女が結婚したのって今年の4月なんだよね。店長と入ったラブホのベッドで、祐実のツイッターを見たの。結婚しましたって報告のツイートにフォロワーからはおめでとうの言葉の嵐。あの女と彰良が付き合った経緯を何も知らないで結婚祝ってるフォロワー達が滑稽で、ツイッター見ながら笑えてきたよ」


 天井を仰いだ理世は一度鼻をすすった。彼女の瞳を溢れる涙は止まらない。


「あの時かな。虚しくなって人生やってられないって思ったんだ。私は好きな男にもセフレとしか扱ってもらえないのに、私から男略奪した浮気相手の女はそのことは自分の友達やフォロワーには秘密にして、ちゃっかり結婚してSNSで幸せアピールしてる。彰良も浮気して女傷付けたくせに何事もなかったように周りには好青年ぶってる」


 理世が経験した悔しさが美夜には理解できなかった。

だけどひとつわかるのは、傷付けた側は傷付けた事実を忘れても、傷付けられた側は一生その傷を心に刻んで生きていく。


血を流していた傷もやがては瘡蓋かさぶたとなり古傷となり見た目には治癒されたように見えても、何かの拍子に目に見えない傷は痛み出す。

人はそれをトラウマと呼んだ。

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