1-8

 久々に食べた祖母の手料理の満腹感と網戸越しに吹き抜ける夜風の心地よさに誘われる眠気。若草色の畳に寝そべって風鈴の音に耳を傾ける。

うとうとと眠りの入り口に一歩入りかけた美夜の耳にマナーモードの着信音が届いた。着信画面に表示された名前は意外な人物。


「……もしもし」

{木崎だけど。電話平気?}


 木崎愁の低く抑揚のない口調は電話を通すと一段と機械的に聴こえた。互いに連絡無精の質らしく、連絡先を交換した後も1ヶ月は連絡が途絶えていた。


「はい。今日は休みなんです。友達の結婚式で埼玉に……」

{友達いたのか}

「けっこう酷いですよね」

{友達必要なさそうな顔してるだろ}

「木崎さんもお互い様じゃないですか」


電話の向こうで愁が笑っている気配がした。窓際でだらんと両手足を伸ばして寝ていたちゃちゃ丸が上半身を起こした美夜の膝にひょいっと飛び乗った。


{今はまだ埼玉?}

「埼玉の戸田市にある祖母の家にいます。結婚式の会場は川口でした」

{戸田市が埼玉のどこら辺なのか、位置関係がわかんねぇな}

「ですよね。戸田市は荒川の側にあって、荒川挟んだ向こうは東京ですよ。……あ、ちゃちゃ丸、テーブルに乗らないの! 紅茶こぼれちゃうでしょっ!」


 美夜に顎や頭を撫でてもらった彼は機嫌良くジャンプしてテーブルに着地した。水出しの紅茶のグラスと食べかけのバウムクーヘンの隣を陣取るちゃちゃ丸は、してやったりな顔で笑っていた。


{……ちゃちゃ丸?}

「祖母が飼ってる猫です。ちゃちゃ丸って言って十二歳のオス」

{あんたも猫相手だと口調が変わるんだな}

「そうですか?」

{そうやって猫相手に喋ってると普通の女に思える}

「さっきもそうですけど木崎さんて、なかなか失礼な人ですよね」


木崎愁は無礼で不躾で口が悪い。相手が違えば不愉快になる発言も愁だと怒る気にもなれない。


「今日はどうしたんですか?」

{折り入って頼みがある。聞いてくれるか?}

「内容によりますね。一応、用件は聞きますよ」

{1日だけ恋人のフリをしてもらいたい}

「……はぁ?」


 予想外の突飛な頼みにすっとんきょうな声が出てしまう。ちゃちゃ丸も首を傾げていた。


{自慢じゃねぇが俺を好きな女子高生がいるんだ。そいつとは訳あって一緒に暮らしているんだが……}

「待ってください。まずどうして女子高生と一緒に暮らしているんです? ご親戚ですか?」

{事情は追々話すが親戚じゃない。そいつの兄貴とも一緒に住んでる。端的に言って俺は保護者代わり}


親戚ではない兄妹きょうだいと同居する事情は想像もつかない。職業柄、複雑な問題を抱える家族にも遭遇するが、三十代の独身男性と血の繋がらない十代の少女がひとつ屋根の下で暮らす状況は正常か異常なら異常の部類に入る。


「……事情はわかりませんが、事態を理解はしました。その子は木崎さんに好意を寄せているけれど、木崎さんは気持ちに応えるつもりはないんですね?」

{話が早くて助かる。舞と言うんだが、俺の彼女に会いたいと言ってきた}


 二人で酒を飲めばキスをしようとしたり、初めての電話では名前を呼び捨てにしたり、女に慣れている男だとは思っていた。

園美が言うには美形の類いに属す愁にはいくらでも女が寄ってきそうだ。


「舞ちゃんって子に木崎さんを諦めさせるために私に恋人のフリをしろと?」

{そうだ}

「いくらなんでも高校生を騙すのは難しいんじゃ……? 今の十代は早熟で勘が鋭いですよ」

{だとしても俺が舞を恋愛対象として見ていないと伝わればいい}


恋に夢を見る子どもに現実を突きつけたい愁の気持ちはわからなくもない。だがイマイチ合点がいかない。


「恋人のフリなら私じゃなくても他にも女性の知人はいらっしゃるのでは?」

{他の女だと面倒な勘違いをするかもしれない。その点、あんたは色恋に興味はなさそうだ。妙な勘違いもしないだろ?}

「興味がなさそうと、はっきり言われるのも心外ですよ?」


 他にもいるであろう女の知人の存在を彼は否定しなかった。愁のスマートフォンの連絡先の欄にずらりと並ぶ女の名前の中に自分も加わっているかと思うと内心は複雑だ。


{日取りはそっちに任せる。来月、あんたの予定がいい日に}


 美夜の返事も聞かずに早口に言い残して愁は勝手に通話を終わらせた。

まったく訳がわからない。事態の把握はできても、偽恋人に自分が指命された理由は納得がいかない。


「来月の休み申請はもう出してあるんですけど! 日取りは任せるって言われても私の予定を聞きもしなかったじゃない!」


心地よい眠気も完全に覚めてしまった。寄り添うちゃちゃ丸相手に愚痴をこぼす美夜の肩に、いつの間にか和室に入ってきた祖母の手が触れた。


「東京でイイ人見つかった?」

「そんなんじゃないよ。それにイイ人じゃなくて自分勝手な失礼男だよ」


 美夜の愚痴を祖母は穏やかに目を細めて聞いている。切り分けたバウムクーヘンを口に放り込む美夜の膨れっ面が、ちゃちゃ丸のビー玉に似た綺麗な瞳に映っていた。

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